頭痛山平癒寺 三十三間堂の寺號

 

 人形淨瑠璃に『卅三間堂棟由來(さんじふさんげんだうむなぎのゆらい)』といふ演目があり、滅多に上演されないが歌舞伎にも移されてゐる。柳の精の物語、つまり異類婚譚として名高い。元來は寶暦十年(一七六〇)に初演された若竹笛躬(わかたけふえみ)・中邑阿契(なかむらあけい)合作の淨瑠璃、「三十三間堂/平太郎縁起」の角書(つのがき)を冠する『祇園女御九重錦(ぎをんにようごこゝのへのにしき)』全五段の三段目(平太郎住家の段)であるが、文政八年(一八二五)に三段目のみ獨立して上演されて以來、現行外題(げだい)となつたといふ。

 原作の外題に謳はれた祇園女御白河法皇の寵妃、後に平忠盛(たひらのたゞもり)に下賜された。故に清盛は法皇落胤とする説がある。忠盛夫人の池殿(清盛繼母)が女御に嫉妬して苦しめたといふ訛傳の類があり、其のことが四段目に仕組まれてゐる。

 眼目の柳の話を掻摘(かいつ)まんで紹介しておかう。……熊野の山中に柳の古木がある。法皇の熊野御幸(みゆき)に供奉する太宰權帥季仲(だざいごんのそちすゑなか、源義親に與して謀反を企む)が鷹狩に訪れるが、鷹の足緒(あしを)が柳の枝に絡みついてしまひ、鷹を救はんが爲に亂暴にも柳を伐(き)らんとする。折から其處へ通りかゝつた横曾根平太郎(北面の武者横曾根ノ次官光當(みつまさ)の息子で亡父の仇討を志してゐる)が弓家の技を以て足緒を斷ち切り、柳の難を救ふ。恩義を感じた柳の精は美女に化身、お柳(おりう)と名乘つて平太郎と契り、一子綠丸を儲ける。ところが、白河法皇の頭痛平癒祈願の寺院建立のため、件(くだん)の柳を切り倒し棟木となすといふ勅命がくだる。お柳は正體を顯(あらは)し、柳の根に絡んでゐた法皇前世の髑髏(頭痛の因)を平太郎に渡し消え去つて行く。

 以下はくだくだしくなるので差し控へるが、柳の精の子別れの趣向は先行する『信田妻(しのだづま)』の狐の精や『百合若大臣』の鷹の精に倣(なら)つたものに違ひない。精靈の血を引く緑丸が超能力を發揮するのも『信田妻』の安倍晴明(あべのせいめい)の例と同巧である。

 此の柳の條(くだり)は既に『平太郎記』『熊野權現開帳并(ならびに)平太郎奇瑞物語』『都三十三間堂棟由來』等の語るところであり、上限は正保年間(一六四四~四八)まで遡れるといふ。

 淨瑠璃では頭痛に惱まされて三十三間堂を建立するのは白河法皇で、史實と異なるが、斯樣(かやう)な敢へて冒す錯誤は淨瑠璃作者や歌舞伎の狂言作者の常套事であつて目角(めくじら)を立てるには及ばない。京都東山の三十三間堂後白河院白河院の曾孫)の勅願により長寛二年(一一六四)に創建、のちに火災に遭ひ、現存の建物は建長三年(一二五一)に再建されたものである。正式には蓮華王院本堂と稱し、別に頭痛山平癒寺(づつうさんへいゆじ)といふ奇妙な寺號があるといふ。

 其の由來は後白河院の頭痛にある。法皇は夢を見た―法皇の前世は蓮華王坊といふ修験者(しゆげんじや)であつたが、熊野の谷で修行を積んでゐた時、柳と梛(なぎ)の連理大木が邪魔になるので枝を切り離したところ、魔道に墮ちてしまつた。頭が痛むのは蓮華王坊の髑髏が柳の根に貫かれてゐるからで、其の髑髏を探し出し件の柳を棟木に用ひて御堂を建てれば頭痛は癒えるであらう……云々。法皇は靈夢のお告げに從つたといふ譯である。殆ど同じ縁起が洛東の今熊野觀音寺にも傳はつてをり、此方は棟木ではなく觀音像である。

 更に申せば、此の縁起は『古事談』巻六収載の「晴明、花山院ノ前生ヲ見顯シテ病因ヲ語ル事」に酷似してをり(因みに此の逸話は澁澤龍彦『唐草物語』集中の秀逸「三つの髑髏」の粉本)、其のことは夙(つと)に西澤一凰が『皇都午睡』の中にて指摘濟みである。

 餘談ながら、頭痛山と申せば、葛原妙子さんの「三藏法師惱みたまへる頭痛山 蹌踉としてよろめく駱駝」といふ秀歌が直ちに想起されるのだが、大陸に斯樣な名の山が在るのだらうか。淺學にして玄奘三藏の『大唐西域記』を讀んでをらず、此處に詠まれた頭痛山が實在のものか、或は葛原夫人の幻視に成るものなのか、斷ずることを得ない。《秋田書店歴史読本」掲載年月不明》