右京と采女――井原西鶴☆須永朝彦譯

 

 萬(よろず)の花は美色あるがゆゑに自ら枝を失ふ。こゝに、何某(なにがし)の侍從(粉本の『藻屑物語』は櫻川侍從)の御許(おもと)に仕へる伊丹右京と申す者があり、花車(きやしや、風雅)の道に萬事秀(ひい)で、容姿(かたち)は見るに眩きほどの美童であつた。同じ家に仕へる母川(もかは、粉本は舟川)采女と申す者、これも十八にて人柄すこやかにして、當流(今風)の若者であつた。
 或る時、采女は右京を見かけてその妖しきまでに優美なる姿に心地を亂され、魂もさだまらぬ體となつた。その面影に見蕩(みと)れて、踏む足も辿々(たどたど)しく己が部屋に歸ると、そのまゝ床についてしまひ、それより晝夜の分かちなく部屋の戸を鎖(さ)したまゝ譯も明かさず、歎息惱亂の裡(うち)に日を送つた。采女の衰弱してゆくさまを案じて親しき人々が醫者よ藥よと樣々に氣遣うてゐたが、折ふし若き同輩(ともがら)が誘ひ合うて見舞に訪れた中に右京も混じつてゐた。焦がれる御方の姿を見て、采女はひどく取り亂し、顔色や言葉の端々に戀慕の氣配を顯したので、居合はせた人々は、皆それとなく病の因(もと)を窺ひ知つた。


 一座の中にこれも采女と淺からぬ衆道(しゆだう)の契りを交はしてゐた志賀左馬之助(しがさまのすけ)と申す者あり、采女のたゞならぬ樣子を見咎め、人々が帰つた後も一人留まつて枕頭(まくらもと)に近づき、囁き聲にて「其方(そなた)の樣子、如何(いかん)とも解(げ)しかねる。心に懸かる事あらば、隔て無(な)う打ち明けて下され。いま見えわたり給うた方々の中に想ふ御方がをられるのではないか。然(さ)まで秘するは罪深き事と存ずる」などと尋ねたが、采女は「左樣の事はござりませぬ」と言ひ紛らはせて、そののちは如何(いか)に尋ねようとも物も言はずに打ち臥すのみ、たゞ夢うつゝの體と見受けられた。
 そこで暦の博士(陰陽師)を招いて易(えき)の卦(け)を問うたところ「この惱みにて玉の緒(命)の絶ゆる事はゆめゆめござらぬ。これは物怪(ものゝけ)、窮鬼(惡靈)の類(たぐひ)の仕業と見受けられゝば、尊き聖(ひじり)に御頼みあつて加持祈祷をなされよ」と申すゆゑ、上野(東叡山寛永寺)の天海大僧正(德川家康の歸依を受け、後に二代三代の將軍を補佐)と淺草(金龍山淺草寺)の中尊權(ごんの)僧正(伊丹政富息)を頼み、二夜三日の護摩を修していたゞき、また采女の母は各地の大社に願を懸けて祈り念じた。その驗(しるし)でもあらうか、少し枕も輕く見えた頃、左馬之助が忍んでまゐり「それがしとの事を恥ぢてをられるのではないか。それがし、是非にも仲立ち致し、思ひ人の御返事をいたゞいてまゐらう。心やすく任されよ」などと申したので、采女は「今までの誼(よしみ)とて、嬉しきお諫め」と受け容れ、思ひの丈を筆に盡くして文を左馬之助に託した。左馬之助は采女の文を袖に入れ、何氣なき體にて時斗(とけい)の間(和時計を据ゑ置いた部屋)に赴いた。そこには右京その人が坐(おは)して、花を眺めて何やら和歌を口遊(くちずさ)んでをられたが、左馬之助に一揖(いちいふ)して「過ぎし一日(昨日)は殿の御前に於いて『貞觀(ぢやうぐわん)政要』(唐の貞觀年中に皇帝と臣下たちが交はした政治問答)の興行(講讀)に暇(いとま)なく、今日(こんにち)も只今までは『新古今集』を讀めとの仰せにて御前に詰めてをりました。それゆゑ少し氣晴らしせんものと、物言はぬ櫻を友と致してをりました」と仰つた。
 そこで「幸ひに、こゝにも物言はぬ哀れなる事がござりまする」と申して、右京の袂の中に件(くだん)の文を入れまゐらせると、「我が方(かた)へではありますまい」とお笑ひになり、庭に下りて木陰の小暗(をぐら)き中へ入られたのは、文を讀む御所存であらう。暫しの後、「我ゆゑに惱みて坐すと知れば、見捨て難う存じまする」と仰り、その日のうちに御返事を下された。左馬之助が直ちに立ち戻つて采女に渡すと、嬉しさのあまり寢間を離れ、それより日増しにもとの氣力を取り戻した。
 世にはまた厭(いや)な事があるものにて、こゝに一人、よからぬ男が現れた。近き頃、御家中(ごかちゆう)に召し出された細野主膳と申す者は、武勇を專(もつぱら)として、常々何かと申せば刀の柄(つか)を鳴らすゆゑ、人々から疎んじられてゐた。事もあらうに、この男が右京に戀着し、夷心(ゑびすごころ)の遣る方なさに、人を介して傳へるべきではないとばかりに、花の下(もと)にて右京を捉へ、蝉が喧(やかま)しく鳴くやうに泣きつ笑ひつ樣々に掻き口説いたが、言葉も返して貰へず、愈々(いよいよ)遣る瀬なき思ひに沈み込んだ。
 されば、類は友を呼ぶと申すのが世の習ひ、こゝに節木松齋(ふしきしようさい)と申して、茶流(さりう)の調度(茶の湯道具)をお預かり致す坊主がこの戀の仲立ちを請け取り、右京の許へ罷り出て主膳の文を差し出し「命に賭けても、情の御返事を賜はりたい」と申し上げたが、右京は打ち笑ひつゝ「無用の仲立ちと申すもの、お茶坊主は羽箒(はばうき)にて塵埃(ちりほこり)を拂ふが役目、それ專一(せんいつ)に心懸けたがよい。この文も茶壺の詰め(口塞ぎ)の役には立たう」と仰つて、即ち投げ捨てた。
 松齋は是非なく退き、仲立ちのならぬ上は我が身も危ふいと思うたか、主膳に對し「右京には他に恃める筋ある樣子、この上は討ち果たして恥を雪(すゝ)ぎ、今宵の内に他國へ立ち退かるゝが上分別」と言ひ繕うて勸め、夕べを待つて身拵へに及んだ。この事は軈(やが)て外に漏れ、右京の耳にも屆いた。右京は最早逃れ得ぬ處と思ひ定め、「このあらまし、采女に知らせずば後々の恨みも深からん。されど打ち明けては武勇の甲斐なし」と心の海を鎭め、「人を抱きて共に淵に沈む(巻添へにする)ことはあるまい」と覺悟を決した。ときに寛永十七年卯月十七日夜の事であつた。
 折節その夜は降雨頻りに物淋しく、宿直人(とのゐびと)も眠りに冒され、袖を敷寢に前後を辨(わきま)へぬ體。この時とばかりに打ち向かふ右京の扮裝(いでたち)は得も言はれぬ華やかさ。雪も妬む白き薄衣(うすぎぬ)を引き違へに(交叉させて)清らかに着(ちやく)し、錦の袴を裾高に穿き、常より深く薰物(たきもの)を香らせ、太刀引きつけて忍びやかに太刀向かへば、隱れなき匂ひに目覺めて驚く者もあつたが、咎める事もなく通した。主膳は廣間に宿直してゐたが、鷹づくし屏風(樣々の鷹の姿態を描く)に寄りかゝり、手にした扇の要の外れたのを差し俯(うつむ)いて見入りし體。そこへ右京が驅け寄り、聲をかけて太刀を振り下ろし、右の肩より乳(ち)の下まで斬り下げた。主膳も日頃の勇猛ぶりに違(たが)はず、左手にて腰の刀(脇差し)を拔き放ち、暫し斬り結んだものゝ深手に苦しみ、「口惜しや」と言ひざま倒れたところを、右京は押し伏せて二刀(ふたかたな)にてとゞめを刺した。
「かの茶坊主も一太刀にて」と、燈を吹き消して此處彼處(こゝかしこ)と窺う間に、最前の太刀風(斬り結ぶ音)に宿直の者どもが目を覺まして奥へ驅け込み、御次の間に詰めゐた者どもは表に驅け出し、建久の昔の富士の狩場の周章(さわぎ。曾我兄弟の仇討)も斯くやといふばかりの大騒動となつた。軈て式臺(玄關先)に織田の何某(なにがし)と建部四郎が急ぎ燈を掲げ、皆々にて右京を取り籠めて殿の御前に引き据ゑた。
 大殿が荒らかなる御聲にて「いかなる宿意(遺恨)のあらうとも上(かみ)を蔑(ないがしろ」にしたる事、以てのほか」と仰せられ、老職の徳松主殿(とのも)を召して事の仔細を檢分せしめた。檢(あらた)めると、一部始終は段々至極(筋の通つた)の事と判り、その旨を申し上げると、「其の方に預けおく」との御意、主殿は右京を屋形内の一間に入れて、その夜は樣々に勞(いたは)つた。
 さて討たれた者の親は小笠原家(當時、豐前小倉十七万石)譜代の細野民部と申す者であつたが、我が子の討たれた姿を目にするや「腹掻き切つて死なん」と怒り諤(わめ)いた。また母親は然(さ)る御方(粉本には天樹院と明記。天樹院とは大坂落城の後に江戸に戻つた千姫の院號)の御覺えめでたく、常々和歌の會にも召されてゐたが、この時は夜もすがら裸足にて驅け廻り、この事を深く歎き「人を殺めたる者を故なく助け、世にときめかせんことの口惜しさよ」と喞(かこ)ちつゝ、涙で袖を濡らすさまに、周圍の人々は憐れを催した。その中の1人、御局宮内卿(粉本は天樹院の御局刑部卿)の子にて、かつては東福寺京都五山の一)の首座(しゆそ)を務め、後に還俗して後藤の何某(粉本は内藤正兵衞重信)と名乘る者が騎馬にて侍從の館に驅けつけ、斯樣(かやう)の事どもを申し入れた爲、大殿もその理を容れ給ひ、右京に切腹を仰せつけられた。これを聞き、仲立ちした松齋も自殺して果てた。
 采女はと申せば、前日より御暇(休暇)申し請けて、神奈川(東海道神奈川宿、現在の横濱)の母の許に參つてゐたが、左馬之助の方より一部始終を書き綴つた急ぎの文が屆き、その末に「右京殿は此の曙に慶養寺にて切腹」とあつた。「逸早き御知らせ、嬉しく存じ候」と返事を出すや、その身は母に暇も乞はず、早舟を驅つて淺草へと向かひ、御寺(みてら)に着いた時には夜も白々と明け果てゝゐた。
 斯くして山門に近き廊下の陰に佇み、事の樣子を窺つてゐると、稚兒(寺小姓)や法師が集うて、とりどりに沙汰(噂)してゐる。「今こゝへ容顏艶めかしき若衆(わかしゆ)が參られ、腹を切らるゝ由、まこと世間並にても、また劣りたる者にても、親の身には悲しからうに、まして、この若衆は理に背かぬ働きをなされて腹を召さるゝとか、さてこそ二親はお歎きでござらう、お氣の毒な……」などと言ひ合うてゐるのを聞き、采女は涙にくれた。折から聞き傳へて見物の者が集まり出したので、身を潛めて待つうちに新しき乘物に大勢が附き添うて來たが、軈て門前にかきすゑられた乘物の内より大樣(おほやう)に現れた右京の容子は類(たぐひ)なく華やかであつた。白く清らかなる唐綾(からあや)の織物に、美しき露草の縫盡(ぬひづくし、總刺繍)、淺黄(あさぎ、水色)の裃(かみしも)の折目も正しく、うらゝかに(きつぱりと)邊りを見渡し給うた。寺中の左の方に目を遣り、咲き遲れたものか少し殘つた山櫻の花を眺めて「縱(たと)ひ舊年の花梢に殘るとも、後春を待つ是人心(縱舊年花殘梢、待後春是人心)」と吟じたのは、後に殘る采女の身の上を喞つての事であらう。
 さて右京は錦の縁(へり)を取つた疊に座して、介錯の吉川勘解由(きちかはかげゆ)を招き、美しげなる鬢(びん)の毛を少し切り落とし、疊紙(たたうがみ、懷紙)に包んで差し置き、「これを都は堀川なる母の許へ、臨終(いまは)の形見と申して送り屆けて下されい」と言づけた。
 その時、和尚が近づき、紫衣の袖を捲り上げ、生者必衰の理を示し給ふと、右京は「この世に長生を保つ美人、鬢絲(髪毛の衰へ)を免れず。容色の衰へぬ前(さき)に本意を達し、自ら刃の上に伏す事(切腹)、これぞ成佛」と仰つて、袂より靑地の短冊を取り出し、心靜かに形を調へ、筆硯(ひつけん)を乞ひ「春は花秋は月にとたはぶれて詠(なが)めしことも夢のまた夢」と書き置くや否や、腹を掻き切つた。勘解由が介錯して後ろへ退(の)いたその時、采女が走り來つて「頼む」と言ひざま、腹を掻き切つたので、これも首を打ち落とした。あはれ、右京と采女は、今年十六と十八を一期(いちご)として、寛永の春の末、こゝに露と消えた。年頃(長年)召し使はれた家來達は、この哀れに心を傷め、或る者は差し違へて果て、また或る者は髻(もとゞり)を切つて世を捨て(出家して)主人の菩提を弔うたといふ。
 今に至るまで、淺草の慶養寺に二人の墓を築き、辭世の歌を位牌に記し、東(あづま)の空に名を高く殘してゐる。志賀左馬之助も「世に永らへても詮方(せんかた)なし」と、思ふところを書き殘し、二人の初七日に自刃して果てた。哀れなる事をいろいろと一時(いつとき)に目にするもの哉(かな)。

                   『男色大鑑』巻三の四「藥はきかぬ房枕」