戀の歌とジェンダー


 

 戀の歌は、相聞(あひぎこえ・さうもん)と稱へた『萬葉集』(八世紀後半成立)の昔から女性に優れた作が多いと言はれてをり、中でも小野小町(をののこまち)と和泉式部は名手の譽れが高い。

  いとせめて戀しきときは烏羽玉(うばたま)の夜の衣を返してぞ着る
  色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける

 小町の戀歌は、呪術的なもの(一首目)と分析的なもの(二首目)に秀逸が多く、後世の肥大化した傳説を踏まへて讀むと意外の感を覺えるかも知れない。

  一方、勅撰集に二百七十四首が採られてゐる和泉式部(女流としては首位。家集は約千五百首を収載)は、まさしく歴代女流歌人の第一人者であり、技法は自在かつ破格、調べは奔放にして哀切を極める。

  君戀ふる心は千々(ちぢ)に碎くれど一つも失せぬものにぞありける

  世の中に戀といふ色は無けれども深く身に沁(し)むものにぞありける
 
 この二首などは註釋なしで現代にも通じる歌で、戀の懊惱を味はつたことのある人ならば即座に共感を覺えるであらう。

  黑髪の亂れも知らずうちふせばまず掻き遣りし人ぞ戀しき

 この上句を「房事のはげしさがもたらしたもの」と斷じた批評家がある。私などはそんな勇氣は持ち合はせないし、また女性の心理も能(よ)くは洞察し得ないが、この歌が發する狂熱の烈しさのやうなものは受け止め得る。そして、類似の歌を幾つか想ひ起こすのを常とする。

  くろ髪の千(ち)すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる

 與謝野晶子の『みだれ髪』(1901年刊)集中の歌で、比べれば更に没我的であり、ナルシシズムの氣配が濃厚である。九世紀を隔てた晶子よりもずつと和泉式部に近い時代を生きた藤原定家(ふぢはらのさだいへ)には、もつと實驗的な本歌取りがある。

  掻き遣りしその黒髪の筋ごとにうちふすほどは面影ぞ立つ

 まざまざと顕(た)ち來るイメージは、さながら映畫のクローズアップ、それも獨り寢の男が囘想裡に見る幻想のやうな趣で、晶子の「千すぢの髪」よりも遙かに近代的な感覺であり技法であると映るが、それは定家の稀有の才能のなせる術(わざ)であらう。これは虚構の作、つまり強(したゝ)かな藝術意識に基づく歌である。

  定家が活躍した『新古今和歌集』(1205年成立)の時代になると、歌は題詠といふ虚を構へたものが主流となり、戀歌も實際に男女が歌の應答をした昔日の相聞とは樣變りして、題詠一邊倒の觀を呈する。甚だしいのは「待つ戀」の題の下(もと)に男が女としての歌を詠む類(たぐひ)で、西行後鳥羽院(ごとばのゐん)も試みてゐるが、やはり定家が抜きん出てゐる。

  あぢきなくつらき嵐の聲も憂しなど夕暮に待ちならひけむ

 若書きの作ながら、讀む者の心にうねうねと絡みついてくる呪詛にも似た歎き、この上句の卓抜なる修辭には舌を捲かざるを得ない。この頃までは、戀愛は男が女の許を訪ねる妻問婚(つまどひこん)の形を採つてゐたから、下句の「なぜに人を待つ習ひを持つやうになつたのか」といふ歎きは明らかに女のものである。假に定家の名を伏せて讀人不知(よみびとしらず)とすれば、女性が詠んだ歌と受け取られてしまふだらう。

 ところで代々の勅撰集には何らかの事情で作者名が伏せられた讀人不知の歌が澤山収められてゐる。風習の反映や詞書(ことばがき)によつて男女の別が判斷できるものは何ら問題は無い。しかし、純然たるエロスの發露といふことになれば男女の差など消失するだらう。現に、讀人不知の過半の作者の性別は判斷不可能と思はれる。専(もつぱ)ら私的感情を盛る和歌、とくに戀歌といふものは一人稱の文藝なのであり、詠者(よみて)の性別は詞書か署名が無ければ不明である。

 それでも、男女間の戀の場合はまだよしとしよう。問題は同性愛の應答、もしくは同性に寄せる戀歌の場合である。そんなものが存在するのかと思ふむきもあらうが、同性愛は歴史と共にあり、殊に宗教の締めつけが緩かつた日本に於いては、古代から男子間の同性愛が記録されてゐる。和歌にも古代以來少なからず見受けられ、江戸時代初期に歌人俳人・和學者として名を馳せた北村季吟(きたむらきぎん)は、歴代の歌書類を博捜し、男色(なんしよく)に關するものを拾集して『岩つつじ』(1713年刊)一巻を編纂、更に後人が幾許(いくばく)かを補遺してゐる。最も古い例は『萬葉集』に載る大伴家持(おほとものやかもち)が藤原久須麻呂(ふぢはらのくすまろ)に贈つた五首と久須麻呂の返歌二首である。家持が贈つた歌は「春の雨はいや頻(しき)降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも」といつた類のもので、何ら男女間の應答と選ぶ所はなく、詞書と詠者名を伏せてしまへば、同性愛を特定するものなど微塵も認められまい。その後も此の種の歌(多くは僧侶と稚児)は勅撰集にぽつぽつと撰ばれてをり、『續門葉(しよくもんえふ)和歌集』(1305年成立)、『安撰和歌集』(1369年以前に成立)など中世の大寺院で編纂された私撰集の「戀の部」も男色の歌で占められてゐる。この、和歌に於ける一人稱(私性)の問題は、實は現代の短歌にも尾を曳いてゐる。

  荒くれを愛せしわれの斷罪か暗き獄舎を戀ひやまぬなり

  慾望われとひとしからねば若者は先行す茱萸の苗わしづかみ

 詠者は一首目が春日井建、二首目が塚本邦雄。主題は紛れようもないが、嚴密を期せば、荒くれ男を愛した「われ」も、若い相手が先にオルガスムスに達してしまつたので茱萸(ぐみ)の苗を鷲づかみにして耐へてゐる「われ」も、男性たる作者自身でないと同性愛は成立しない。作者の名を女名前に替へれば、これらの「われ」は忽ち女性と變じ、異性愛の光景が顯現するだらう。つまり、「自分は男であり、しかも男を愛する」と一々詠み込むか、或は他者の行爲と捉へて敍景歌のやうに詠むか、そのくらゐしか方法は思ひ中(あた)らない。恐るべきは和歌・短歌の骨がらみ私性である。しかし、

  夕星(ゆふづつ)よあはれ星彦、とうたひいでし詩人プラトー少年を愛す

 と、斯樣(かやう)に客觀に徹してプラトン的エロスの佳景を顯現させた人もあつた。因みに、詠者は昭和隨一の閨秀歌人葛原妙子である。
                             
     週刊朝日百科《世界の文学》90「エロスの誘惑」
     朝日新聞社週刊朝日百科《世界の文学》90:2001年4月15日 發行