いつかの二人《畫面の外で》ラケル・メレ追補
今月8日にアップした【いつかの二人】に掲載した《チャーリー・チャップリンとラケル・メレ》記事中のラケル・メレと蘆原英了に就いての追補です。
「……蘆原英了は若き日に巴里でメレの舞臺に接してをり、その折の印象などを『巴里のシャンソン』(1956年)に書き遺してゐます」と記しました。メレの舞臺に關する記述は確かにありますが(「トウル・ド・シャン」といふ項の中で2頁餘)、此れより早く1936年、雜誌『東寶』に「ラケル・メレを語る」と題する一文を寄稿してをり、此のエッセーが没後に刊行された『シャンソンの手帖』(1985年・新宿書房【蘆原英了の本】全三巻中の一冊)に収録されてゐた(四六判で6頁餘)のを思ひ出し、久しぶりに讀み返しましたら、『巴里のシャンソン』中の記事は「ラケル・メレを語る」を約(つゞ)めた體のものでありました。1936年の記述から少し引用しておきませう(雜誌掲載時は舊字體舊假名遣であつた筈ですが、今は『シャンソンの手帖』の表記に從つておきます)。
「私が彼女の実物に接したのは一九三二年の暮の巴里のことである。シャンゼリゼ通りの映画館で彼女の主演発声映画『帝国の菫』が封切された、その初日の晩であった。彼女はそのフィルムの封切記念に舞台に現れて歌ったのである。(中略)
ラケル・メレはこのフィルムの始まる前に、この映画で歌われた主題歌を五つ六つ歌った。その主題歌というのは特に作曲されたものでなく、すでに彼女の唄として有名なもののみであった。もちろん、私もレコードで知っているものであった。彼女は五人ばかりのオーケストラの伴奏で、唄のたびごとに扮装を変えて歌った。その扮装は映画の中で着られたものであった。(中略)
その後、アルアンブラというミュージック・ホールで彼女のトゥール・ド・シャンを聞いた。この時は、アルアンブラ・ガールズに取囲まれて歌い、演出がよかったのでなかなか素晴らしいものであった。彼女はこの時、お得意の『菫売女(ヴィオレッテラ)』を歌った。菫の花を一杯に入れた花籠を抱いて彼女はこの唄を歌った。およそ世の中にこんな甘美な声がまたとあろうかと思った。こんな魅惑に富んだ、こんな人の心にまつわりついてくる声があろうかと思った。」
映畫『帝國の菫 VIOLETAS IMPERIALES』の中でメレが歌つた「ドニャ・マリキータ」の樂譜表紙(CDブック『siete CUPLETISTAS DE ARAGON』より)
メレのレパートリーは西班牙(スペイン)のcuples、日本流に申せば所謂(いはゆる)歌謡曲であります。たゞ、巴里を本據地にして活躍した人ですから、西班牙語で歌ひながらも、他の歐羅巴人が西班牙に對して抱く異國情緒を滿足させるやうな唄、例へばホセ・パディーリャの曲などが多かったのであります。彼女の「ドニャ・マリキータ」には聽くたびに陶然とさせられますが、その歌ひ廻しは他のクープレ歌手の其れとは全く違つた獨得なものと感ぜられるのです。「ドニャ・マリキータ」を、カンテ・フラメンコの名手ニーニャ・デ・ロス・ペイネスが歌つた、此れまた素晴らしいレコードがあるのですが、テンポが3倍くらゐ速くて同じ唄とは思へぬほどであります。
私が彼女の唄を知つたのは十代の終りの頃(1960年代中頃)ですが、當時はセット物のアンソロジーLP(Anoradas Canciones de Hispano Americaなど)に3曲くらゐ収められてゐただけで、あとは古いSPレコードを探して聽くより術(すべ)がありませんでした。それがCD時代に入るや、西班牙や佛蘭西で彼女の古い音源が陸續と復刻され、ネット上で簡單に購入出來るやうになつたのには喜ぶ前にまづ呆れましたね、「あの頃の苦勞は何だつたのだ!」と……。
ラケル・メレの海外盤CD