レニエよ甦れ――レニエと明治大正の作家たち

 

 歐羅巴の十九世紀末、遠い異邦の百數十年前のこととなると聊か杳(はるか)な思ひに捉はれるものの、其處に日本人の姿を見かけるとき、其の景色が一擧に身近なものと觀ぜられてくる。たとへばルートヴィヒⅡ世がシュタルンベルク湖に於いて謎の死を遂げた當日、ほど遠からぬミュンヘンの酒鋪では森鴎外が杯を傾けてゐた。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』が刊行された頃、夏目漱石は倫敦に留學中であつた。十九世紀末の佛蘭西に輩出した多士濟々の作家の中で、私がまづアンリ・ド・レニエに關心を持つたのも、其處に日本の詩人が介在したからであつた。

 ☆君とゆくノオトル・ダムの塔ばかり薄桃色にのこる夕ぐれ

 これは、與謝野晶子が巴里で詠んだ歌である。已に廿世紀を迎へてゐたが、一九一一年(明治四十四年)の末、晶子は、『明星』廢刊後名聲が下降氣味であつた夫與謝野寬の再起を願つて巴里遊學に送り出すが、思慕の念抑へ難く、翌年自らも巴里へ赴き五ヶ月ほど滯在した。一九一二年六月十八日、夫妻はレニエとロダンを訪ねてゐる。

 歸國後晶子が發表した「ロダン翁に逢つた日」と題する一文に「その日は、今から思ふと私の一生に記念の深い吉日で、午前にはフランス現代詩人の雄であるアンリイ・ド・レニエ氏を訪ねて、氏の書齋でお話を聞くことができました。有名な女詩人で、氏の夫人であるゼラアル・ド・ウ・ウヴュ女史にもお目にかゝりました。」といふ一節がある。寬にも會見の印象を綴つた文章がある。其の折、晶子は刊行したばかりの『新譯源氏物語』を獻呈したといふが(おそらく全四巻の内の一、二巻)、此の本は中澤弘光の極彩木版刷插畫を入れた菊判天金の豪華なものであつたから、造本の美しさはレニエにも感受されたに違ひない。因みに巴里では十九世紀末以來日本趣味が受容されてゐた。夫妻はレニエよりも彫刻家のロダンに親近感を抱いた如くにて、其の後、彼らの著作活動の上にレニエとの會見が何らかの影響を及ぼしてゐる樣子は認められない。

 レニエの作品を初めて邦譯したのは、詩篇散文ともに佛文學専攻の徒ではなかつたやうである。詩篇は英文學者上田敏が『明星』に譯出し『海潮音』(1905年)に収めた三篇が嚆矢ではなからうか。小説は森鴎外ヴェネチアを舞台とする短篇『復讐』を『三田文學』(一九一三年)に譯出したのが最初かと思はれ、永井荷風がレニエの詩篇十篇(集中最多)を収める譯詩集『珊瑚集』を刊行したのも一九一三年(大正二年)のことである。一九一二年にレニエと見(まみ)えてゐる與謝野夫妻も含めて、此處に擧げた人たちの間には淺からぬ交遊があつた。すなはち彼らは『明星』『スバル』『三田文學』と續く系譜の央座を占める作家であり、其の交遊の折々には同時代を生きる異邦の作家アンリ・ド・レニエが話題にのぼつたといふことも有りうる――と、これは想像を逞しくすればの話である。稍(やゝ)時間は遲れるものの大正末年にレニエの長篇『燃え上る青春』を譯出し、未曾有の大譯詩集『月下の一群』にレニエの詩篇十篇を収めた堀口大學も與謝野夫妻の門弟であり、『三田文學』を通じて荷風に親炙した一人でもあつた。

 荷風は早く明治四十二年に「レニエの詩と小説」と題する一文を新聞に發表して其の作品を稱揚してをり、堀口大學の譯著『燃え上がる青春』に與へた序文(大正十二年十月)には「若し余をして現時海外著名の文學者の中(うち)最(もつとも)余の心醉するものを擧げしめんか。余は先(まづ)指をレニヱーに屈し此(これ)につぐアナトール・フランス並(ならび)にアンドレジードの二家を以てすべし。堀口君亦(また)よく之を知り其(その)外遊中レニヱーが新作の市に出るを見るや必ず一本を購つて郵寄せらる。歐州大亂の時吾國(わがくに)學藝の士皆舶載の新書を獲るに苦しみたり。然るに余は獨(ひとり)堀口君の海外に在るの故を以て愛好の新書を手にすること毫も太平の日に異らざるを得たり。レニヱーの著作の余に於けるや其(その)感化恰(あたかも)良師に見ゆるが如し。」といふ條(くだり)があつて、其の心醉ぶりが窺ひ得る。

 周知のやうに、死に瀕する水都ヴェネチアをこよなく愛したレニエは過去を歌ひ過去に分け入り、其の幻影にどつぷりと身を涵(ひた)す體(てい)の作家である。其の心理小説には何憚るところなく愛慾の世界が描き出され、それは決して猥雜に墮ちることはないが、道徳不在と申し得るまでに一種隱鬱なる悦樂が追求されてゐる。レニエ自身がさる批評家に「小説は個人的快樂のためにしか書かぬ」と語つたさうである。明治の文明開化を嫌惡した荷風には、レニエのすべてが意に適つたに違ひない。所謂道徳を顧みず個人的快樂に徹するといふ點でも二人の志向は共通してゐるかの如くである。然しながら荷風の小説はレニエの描き出す世界とは殆ど似てゐない。レニエを可(よし)とする見方もあれば、荷風に荷擔するむきもあらうが、私などは荷風に同情を持てない。荷風の場合、現代に對する嫌惡感が強い分だけ文明批評が露骨になり、時として淺薄な觀さへ呈する。そして、決定的な相違は、レニエが過去に分け入る際に獲得する〈幻想文學風〉の妙趣とでも申すべきものが、荷風には微塵も認められぬことであらう。

 私はレニエの長篇小説の中では『生きてゐる過去』を最も愛するものであるが、此の作品に展開される過去と現在の交響から比類なき美的至福を享受する。このたび初めて讀み得た初期短篇集『碧玉の杖』収録の「アメルクール卿」の連作の中に「そのとき私は性愛の雅致と美の喜悦を理解した」といふ一行を見出(みいだ)し、恰もレニエの小説の讀後感を言ひ表したかのやうな趣があつて感慨を覺えた。また、同じく集中の「戸棚でみつかつた手稿」の終章、孔雀の翅の〈眼状斑〉の由來を捏造した條の美しさに更(あらた)めてレニエといふ作家の凜質を知らされた思ひがする。

 上田敏、與謝野夫妻、森鴎外永井荷風堀口大學……錚々たる作家たちによつて紹介されながら、レニエは日本ではさほど讀まれなかつた。如上の作家たちよりも、たとへば郷里の水郷柳川を異邦人のやうな新鮮な眼で捉へて歌つた北原白秋とか、殉情を以て念ずる幻影を引き寄せて書き留め得た泉鏡花などの方が、レニエにより近似した作家と思はぬでもないが、緻密に讀み比べるならば白秋や鏡花のよろしさはやはり質(たち)を異にするものであり、當然のことながらレニエ寫しの日本人作家などは見當らない。堀口先生亡きあと、レニエに言及して下さる方は一人窪田般彌氏のみである。其の昔、鴎外や杢太郎によつて紹介された世紀末墺太利オーストリア)の作家ホーフマンスタールが近年再た讀まれるやうになつた例もあり、レニエにも左樣な復權の時が訪れるべきかと思ふ。このたびの『碧玉の杖』刊行が其の契機とならんことを願つてやまない。(一九八四年五月《フランス世紀末文学叢書》3  月報)