江戸には江戸の世界が

 叶ふことならば引きこもりたいと思ふが、私のやうな貧民には出來ない相談である。一九六〇年代に流行したカンツォーネ(伊太利映畫『硝子の部屋』主題歌)を流して世迷言(よまよひごと)を繰り出すピン藝人ヒロシのネタに「引きこもりたくてもお金がなかとです」といふのがあつて、甚(いた)く共感を覺えた。左樣、引きこもるには〈お金〉の庇護が必要なのだ。
〈引きこもり〉なるものが云々され始めたのはそれほど古いことではないと思ふが、問題視されながらも、かゝる人たちが存在しうるのは、養ひ果(おほ)せる身内がゐて、それを可能にする社會が在るからであらう。貧困層が多數を占める社會では、恐らく許されぬ存在である。
「江戸の遊び人について書いてほしい」とだけ電話で依頼されて此の稿を引き受けたが、後日屆いた〈原稿依頼書〉には「ニートの特集」とあり、いさゝか困惑した。

 江戸時代の〈遊び人〉は破落戸(ごろつき)すなはち強請(ゆす)り騙(たか)り・博徒・八九三(やくざ)・放蕩者などの謂(いひ)であり、今日の〈引きこもり〉や〈ニート〉の類とは相當に體(てい)を異にする。身分制度や人別の締め附けが嚴しく、富裕層が極く少數であつたから庶民には〈引きこもり〉などはまづ無理であり、〈フリーター〉も立ち行かないかつたらう。それでも〈制外〉に生きんと望む者は〈缺落(かけおち)〉して〈無宿者〉となるよりほかに道は無かつたやうである。
 江戸には江戸人の世界觀があつた。今日の事情を優先させて、其處に過去の世を引きつけて論(あげつら)ふことに私は抵抗を覺えるが、一旦引き受けたものを締切直前に斷るのも氣がさすから、それらしい事例に一通り觸れて責を果たしたい。

 江戸幕府も二六五年續いたから世相・人情にも相應の變遷があり、一概には談じ難いが、盗人・乞食・親不孝など、傳へ殘された逸話は枚擧に暇(いとま)が無いほど多い。
 制外民や破落戸らしき者の影は王朝末期あたりから見え隱れしてゐるやうだが、中世後期の婆娑羅(ばさら)や傾寄(かぶき)の徒に到つて輪郭が判然として來るごとくである。
 こゝから〈無宿者〉〈八九三〉が派生したと思しいが、其の軌跡を詳しく辿るだけの知識は持ち合せてゐないので、關心を持たれる方は猪野健治の勞作『やくざと日本人』等を參照していたゞきたい。
〈無宿者〉とは何者か、掻い摘まんで記せば、貧窮・怠惰・犯罪などに因つて身が立ち行かなくなつた者が強制的(久離・勘當・追出)に、或は自發的(缺落)に、即ち〈帳外〉となるのだ。〈帳外〉とは人別帳(宗門改帳などの所謂戸籍)から名が抹消されることで、取締りの對象となる。大飢饉が起こると大勢の無宿者が大都市に流入したが、幕末に到ると己の意志で無宿となる若者が増えて徒黨をなしたといふ。これが〈八九三〉であり、賭博を營むのみならず、〈打毀(うちこはし)〉の擧に出たり、雇はれて百姓一揆に加はつたりしたのである。
 此の〈無宿者〉が今日の〈ニート〉に通ずるところがあるのかどうか、私は明快に斷じ得ない。〈引きこもり〉などは、或は上層武家にはあつたかも知れないが、庶民では裕福な商人か豪農の子弟でもなければ成立しなかつたのではあるまいか。何しろ、江戸町民の大かたは六疊一間の裏長屋に住んでゐたのだ。假に引きこもれたところで、人と接することなく情報を得る手段など皆無なのだから、何の慰藉(ゐしや)も得られないだらう。
 相續した金銀を男色(なんしよく)女色の遊蕩に使ひ果しても遊び足りなくて、まだ存命の親の隱居銀(いんきよがね)を擔保に〈死に一倍〉で借りる(親の死後三日の内に二倍額返却)といふ類の親不孝者の逸話が井原西鶴の『本朝二十不孝』などに少なからず見えるものの、此れが〈ニート〉と申せるかどうか。元祿期の風聞を集めた『世間咄風聞集』には、次のやうな逸話が載つてゐる。高野聖(かうやひじり)の從者(じゆしや)たる若衆(わかしゆ)が、衆道(しゆだう)を迫つた男の妹と結ばれて刀劍屋の婿に納まり、裏店(うらだな)に新居を持たせて貰ふも、夫婦とも未熟にて朝夕の食物さへ拵へかねる體、何の商売もせず無爲徒食の日々を貪つてゐる……云々。〈引きこもり〉とは申せぬまでも、多少とも〈ニート〉の氣味が觀ぜられはしないだらうか。
 近世には〈日傭取(ひようとり)〉なる渡世のほか、〈渡徒士(わたりかち)〉〈渡小姓〉〈香具賣〉など不安定な生業(なりはひ)が種々あつて、強ひて申せば〈フリーター〉に通ずるところがあるかも知れないが、大概は據所(よんどころ)なく就いてゐたのである。たゞ「自ら選んで」といふと語弊があらうが、若き日に〈フリーター〉や〈無宿者〉めいた日々を送つた後に名を成した人々が在つた。彼等を受け容れたのは藝能や戲作の世界で、名を成さぬまでも小身の旗本や御家人も次男坊以下の者には芝居の裏方や戲作板本(はんぽん)の筆耕者となつた例もあつたやうだ。
 平賀源内は武家社會に愛想を盡かし氣儘にして不遇・波瀾の生涯を送つた。初期の戲作『世間妾氣質』に「荒れにし我軒は、いつしか浮浪子(のらもの)の中宿となり」と記した上田秋成は養父が身罷るまで放蕩に身を委ねてゐる。唐來三和(たうらいさんな)は武家を捨て放逸流浪の末に娼家の入婿(いりむこ)となり、黄表紙の作者として名を顯した。鶴屋南北は家業(紺屋の型附職)を繼がずに芝居の作者部屋に入り、長い下積みを經て化政度の大作者となつた。十返舍一九は駿河千人同心の家に生まれながら武家を辭めて諸國を放浪した後、江戸に出て文名を擧げてゐる。曲亭馬琴も下級武士の暮し
を見限つて放浪轉々、戲作を志し、師の山東京傳を超えて化政度隨一の戲作者となつた。浮世繪師として獨自の世界を展開して見せた歌川國芳もまた紺屋の倅(せがれ)であつた。丹念に調べるならば、なほ幾多の例を擧げ得るであらう。今日とは比較にならぬ嚴しい身分制度の枷を受けながら、彼らは己の志を〈慰み=エンターテインメント〉の世界に於いて成就させたのだと申しても聽(ゆる)されよう。
       《新書館「大航海」ニート特集號》