靈園・坂道・展覽會

 中旬に上京、五日ほど滯在しました。舊臘以來、四ヶ月ぶりです。
 16日朝、Mr.Vermilionに車で上信越道屋代ICまで送つていたゞき、高速バスで東京へ。珍しく豫定時間通りに新宿驛西口に到着、15時に澁谷で吉村明彦さん、礒崎純一さん(国書刊行会出版局長)と待ち合はせ、吉村さんの御案内を得て焼鳥屋へ。明るいうちから飲むと、何とはなしに悖徳的な氣分になりますね。
 お二人が盡力なすつた井村君江さんの『日夏耿之介の世界』への反響、礒崎さん念願の『マルセル・シュオッブ全集』の進行状況など話題は盡きませんでした。シュオッブ全集は近々刊行の運びとなるやうです。童顔の礒崎さんはとても左樣なお齡(とし)には見えませんが、三年半後には還暦を迎へられる由、「お役に立てるのも、あと數年のうちですよ」と日頃の怠慢を婉曲に窘められてしまひました。

郡司正勝先生のお墓詣り】
 17日11時、西武新宿線小平驛にて宮坂桂子さん・村上佳子さん姉妹と待ち合はせ、御命日から二日遲れとはなりましたが、郡司先生のお墓へ詣つてきました。變はりやすい天氣でしたが、降られることもなくお詣りを濟ませることを得ました。御健在なら百一歳となられる筈です。
 語り出せば先生の想ひ出は盡きませんが、時折私の夢に現れ、或る時などはいきなり長唄「晒女(本名題は「近江のお兼」)」の一節を踊り出されたので、覺めるや直ぐに「着流しの郡司正勝夢に顯(た)ち晒女(さらしめ)を舞ふ飄逸至極」と詠んだことがあります。

 郡司家墓域

 郡司家墓域の馬酔木

 八重櫻

 牡丹咲きの水仙

 山吹

 廣大な園内には花木が多く、今を盛りの八重櫻などを見ながら逍遙してゐるとぽつぽつ降り出したので、國分寺に出て驛ビル最上階のレストラン街にて桂子さんから晝食の御馳走に與かりました。その間(かん)1時間餘、外に出てみると雨は上がつてをり陽も差し始めたので、驛の傍の殿ヶ谷戸(とのがやど)庭園を散策しました。
 都立の囘遊式林泉庭園にて、東京在住時にはしばしば訪れた所、園發行の栞に曰く「武蔵野台地の傾斜地に位置し、国分寺崖線といわれる崖地と崖下から湧出する地下水を巧みに利用して、武蔵野の面影をよく残しています。四季折々の変化に恵まれた景観は、都内に数少ない近代庭園の一つで……」云々。春は天南星・金蘭・蝦根などの山野草、秋は紅葉が樂しめます。

 殿ヶ谷戸庭園の新緑

 湧水

 著莪(シャガ)群落

 金蘭

 黄蝦根(キエビネ

谷崎潤一郎展−絢爛たる物語世界】
 18日9時半頃に滯在先の吉村明彦さん宅を吉村さんと共に出て、10時頃澁谷驛前にて服部正さんと合流、東横線みなとみらい線直通)で横濱へ。東横線が地下鉄副都心線と繋がつたので澁谷は始發驛ではなくなり、容易には座れなくなりました。それでも30分弱で元町・中華街驛に到着、外人墓地を横に眺めながら〈港が見える丘公園〉内の神奈川近代文学館へ。

 1964年の春に佐藤春夫が急逝(自宅にてラジオの録音中)、春夫の愛讀者であつた私(當時18歳)は新聞の訃報記事や文藝雜誌の追悼號などを買ひ集めて讀み耽りました。大正から昭和戰前にかけて佐藤と昵懇の間柄であつた谷崎も朝日新聞に談話を發表しましたが「麒麟が駄馬になつた」とも受け取れる嚴しい一節があり、ちよつとした衝撃を受けたことを今に忘れません。其の翌年、谷崎も逝去してゐますから、今年で丁度歿後50年となる勘定なのですね。

 開催前に谷崎研究の新資料ともなるべき書簡が澤山展示されるとの報道があり、是非見ておきたいと思つた次第であります。谷崎が三人目の妻となる根津松子に宛てた澤山の書簡が目玉となつてゐましたが、其の一部は谷崎歿後に松子夫人が自著『倚松庵の夢』などに發表濟みながら、實物の筆の跡を見るとまたあらためて感慨を覺えました。初めて展示された、前妻千代に伴はれて佐藤春夫の許に去つた娘鮎子への200通を超える書簡には谷崎の父としての一面が窺はれて暫し興味深く拾ひ讀みを試みましたが、第一の目玉は、根津松子に對する想ひを縷々と綴つた佐藤春夫宛の書簡(昭和8年3月23日附。新發見の由)でせうね。『細雪』をもう一度讀まうかなと思ふのですが、果たして其の時間が殘されてゐるかどうか……。

 ポスター

 根津松子・重子姉妹と交はした書簡

 見終えて館を出ると丁度正午で晝食時、服部さんから元町の燒肉屋でビーフカツレツの御馳走に與かりました。ビーフカツレツと申しても維納(ウィーン)風の薄い仔牛肉カツレツではなくステーキ用の厚い赤身の牛カツ、洋食屋ではお目にかゝらぬ珍しいお料理でした。お仕事を控へる吉村さんが一足先に戻られたので、服部さんと私は往路の電車を引き返し澁谷經由で青山に出て維納風のレストランカフェにて午下がりの珈琲を味はひました。


【臺灣の日文學者 劉靈均さん】
 朝日カルチャーセンター新宿教室に講座を持つてゐた當時度々受講して下さつた益岡和郎さんの御仲介で、私の小説を翻譯したいと仰る臺灣の若き日文學者とお目にかゝることになり、閑静な所でといふことで、益岡さんともども東大農學部に近い弥生美術館で待ち合はせました。

 劉靈均(リウ レイキン)と仰る方で、現在神戸大學の大學院〈人文学研究科〉に在籍中、いたゞいた名刺には「文化構造専攻(中国文学)博士後期課程」とありますが、これとは別に臺灣や日本の現代文學の研究もなさつてゐるやうです(お好きな日本の作家は、何と安西冬衞、あの『軍艦茉莉』の詩人です)。臺灣で活躍中の呉繼文(ゴ ケイブン)といふ、同志文學(同性愛者などのセクシュアル・マイノリティをテーマとする文藝)の小説を幾つも發表してゐる作家さんとも親交がお有りだと伺ひました。私の吸血鬼物の掌篇短篇を漢譯して臺灣に紹介したいとのこと、ありがたきお話であります。
 此の時はまづ開催中の《橘小夢展》を見てから併設の喫茶店で語り合ひました。劉さんは既に何度か此の美術館を訪れてゐる由、大正・昭和戰前の插繪文化にも關心をお持ちのやうです。

 〈橘小夢展〉ポスター

 「牡丹燈籠」

 劉さんは文學研究の傍ら、中國語の通譯もなさつてゐるさうで、此の日も其のお仕事で18時には羽田空港を發つて大分に向かはれるといふことでした。30歳を超えてゐる由ながら、現役大學生のやうに若々しい方で、日本語も頗るつきの達者でいらつしやいます。


【足利で休息】
 20日は午前中から都心に出かけ、まづ築地場外市場の河内園で煎茶と焙茶を購入(築地明石町在住時、長らく此處の〈特蒸し〉煎茶や〈都焙じ〉を愛飲)、其のあと徒歩にて銀座へ移動、4丁目の山野樂器店で柿沼裕朋さん(NHK新日曜美術館ディレクター)と待ち合はせ、いつもの松崎煎餅2階喫茶室(並木通り)にて煎茶と和菓子をいたゞきながら、郡司先生や種村季弘さん、金子國義さんのことなど語り合ひ、2時間ほど愉しい刻(とき)を過ごしました。

 21日正午前、五日に亙(わた)つてお世話になつた吉村さん宅を辭して北千住へ。此處で東武伊勢崎線の特急りょうもう15號に乘り替へて足利へ。だだつ廣い霊園や坂の多い横濱や根津などを歩き廻つたせゐか聊か疲勞氣味、足利でだらだらと數日を過ごしてから信州に戻りました。

 幕末維新の激動期を生きた地元の繪師田崎草雲(生まれは江戸の足利藩邸)の八ツ橋圖屏風が展示されてゐると聞き、自轉車で緑町の草雲美術館(舊居白石山房跡)まで出かけてみました。少年時の記憶に殘る草雲の繪は富士山や波濤に日輪などで殆ど興味が持てませんでしたが、件の屏風(殿岡チカ寄贈とありましたから、もとはアキレス・興国化学創業家の所有であつたと推されます。高校の同級に殿岡家の子息がゐました)や三幅對の花鳥畫などは實に結構なものにて認識を新たにした次第であります。
 西宮町の長林寺に草雲の墓があるといふので、其の足で立ち寄つたところ、毛足の長い大きな飼猫に遇ひました。此の寺には室町・戰國期の領主たりし足利長尾氏累代の墓もあります。

 草雲美術館



 「八ツ橋圖屏風」六曲一雙左隻

 長林寺:山門、猫、牡丹


 長林寺は織姫神社西側の谷合(たにあひ)のやうな所に在り、其の奧にはアキレスの工場、縣立の工業高校、西宮神社などが在ります。織姫神社(足利織物の守護神、1705年=宝永2年の創建といふ)が在る織姫山の裾を本城(長尾氏城郭地)へ向かふ道には寺が多いので、數十年ぶりに自轉車にて辿つたところ、まづ視界に入つてきたのが記憶にある虚空藏樣、正しくは徳正寺と稱へるとは知りませんでした。幼少時、母に連れられて繭玉市(確か初午の日)に詣つたことを覺えてゐます。
 次は記憶にありませんが明石山樹覺寺、門前に皮肉な文言が張り出されてゐました。其の次に目に入つた巖島神社(通稱:明石辨財天)には何と〈美人辨天〉の立札が……。詣でれば美人になれると信ずる近在の婦女子が參詣してゐるとか、おそらくは近年のことでせうね。金色に輝く派手なお寺も見た記憶があるのですが、半刻ほど過ぎても見つけられませんでした。

 徳正寺

 明石山樹覺寺:山門、門前貼紙、境内の藤



 巖島神社=明石辨財天(美人辨天)

 歸りは柳原町の方へ出て鑁阿寺(ばんなじ、山號は金剛山仁王院法華坊)に寄つて見ました。此處はもと足利氏の居宅を後に氏寺となしたもので本堂(大御堂)は國寶、御本尊が大日如來なので、町の人は大日樣と呼んでゐます。太鼓橋を渡り山門を潜つて直ぐ上を振り仰ぐと源三位頼政鵺退治の大繪馬が掛かつてゐたやうな記憶があるのですが見當たりませんでした。60年ほど前、五月の祭禮時には境内にサーカスや見世物小屋が澤山かゝり、怪しげなものもいろいろ見ましたよ。

 鑁阿寺:山門、大御堂、大銀杏


 中橋といふ橋を渡つて歸る途中、川原を見下ろしたら枯蘆の中に何と雉(羽色鮮やかな雄鳥)の姿が! 渡良瀬川で雉を見たのは初めてです。昔は流れが豐かで夏到れば泳いだりしたものですが、上流の足尾にダムが造られて以來水量が減り蘆などが繁茂するやうになつたせゐかも知れません。
 此の橋から上流の渡良瀬橋を見てゐたら、森高千里の持ち歌「渡良瀬橋」の歌詞に出てくる八雲神社が見たくなりUターン、緑町へ。こんなことなら、同じ町内の草雲美術館を出たあと寄ればよかつたのに……やれやれ。
 私の生地の鎭守も八雲神社ですが、此方は村社で「後三年の役の際に源頼義・義家父子が戦勝祈願をした」などと傳へられる緑町の縣社とは比べ物にもなりません。ついでに村社にも參詣してきましたが、拜殿も石段も昔と變はりませんでした。拜殿の裏で蟻地獄(薄羽蜉蝣 ウスバカゲロフの幼蟲)を捕まへた事などが思ひ出されます。
 
 渡良瀬橋:中橋よりの眺望

 縣社八雲神社

 村社八雲神社


 またの日、小學校への通學路が見たくなつたので自轉車を走らせました。まづ家の前を通る中橋通り(昔は小泉新道と稱して群馬縣小泉行きや埼玉縣熊谷行きの路線バスが通つてゐました)の切り通しを抜ける前に裏側の馬頭觀世音(吐月庵醫王寺)を參拜、黄色咲きの蓮華躑躅が綺麗でした。切り通しの先を右折して山裾を進むこと數分(小児の徒歩なら20分ぐらゐかゝつたかも)、八幡山の古墳群に突き當たります。杉の巨木は昔通り、木造だつた小學校はコンクリートの建物群に一變してをり、懐かしさの缺片(かけら)も見いだせない……。撮影は控えて其の先の八幡樣へ。
 此の八幡宮は天喜の昔(11世紀)、源頼義・義家父子が前九年の役に際して戦勝祈願のため京の男山八幡宮を勧請創建したものと傳へられてゐます。其の八幡太郎義家の四男義國(足利式部大夫)が足利庄領主となり、其のまた次男の義康(義家の孫、鳥羽院北面武者)が足利氏を名告つた由であります(因みに義國長男の義重は新田氏の始祖)。
 境内の門田稲荷神社は榎木稲荷・伏見稲荷と並んで三大縁切り稲荷の一とされ、今でも丑の刻參りをする人が有るとか無いとか……、劍呑なことではあります。

 中橋通りの切り通し

 馬頭觀世音(吐月庵醫王寺)の躑躅

 小學校通學路

 八幡山古墳群

 縣社八幡宮

 《源姓足利氏發祥之地》の碑