いつかの二人☆映畫篇*洋畫《畫面の外で》

 戰前戰後(第二次世界大戰)の歐米映畫スターが二人寫つてゐるものを御覽に供しますが、此處に載せた寫眞は出演映畫のスチールではなく、所謂スナップ(撮影の合間のショットなど)や演劇教室のカリキュラム中の一場面などであります。

1.チャーリー・チャップリンラケル・メレ(Charlie Chaplin & Raquel Meller)

2.ラモン・ナヴァロ(右)とギルバード・ローランド(Ramon Navarro & Gilbert Rowland)

3.マレーネ・ディートリヒとジョゼフ・フォン・スタンバーグ(Dietrich & von Stemberg)

4.ジェームズ・ディーンマーロン・ブランド(James Dean & Marlon Brando)

5.ジェームズ・ディーンポール・ニューマン01(James Dean & Paul Newman)

6.ジェームズ・ディーンポール・ニューマン02

7.ポール・ニューマンアンソニー・パーキンス(Paul Newman & Anthony Perkins)

8.ロック・ハドソンジェームズ・ディーン(Rock Hudson & James Dean )

9.ロック・ハドソンとトロイ・ドナヒュー(Rock Hudson & Troy Donahue)

10. アラン・ドロンロミー・シュナイダー(Alain Delon & Romy Schneider,1959)

1:チャップリンの「街の灯」ではホセ・パディーリャ(主に巴里で活躍した西班牙人の作曲家)の「ラ・ヴィオレテラ La Violetera」がたいそう効果的に用ひられてゐますが、これを創唱したのは20世紀前半、絡みついてくるやうな甘き歌聲で歐州を席巻した西班牙の歌姫ラケル・メレ(西班牙ではメジェと發音するのかも……)で、チャップリンは彼女の大ファンでありました。此の一枚は「街の灯」撮影中に撮られたものだと思ひます。「ラ・ヴィオレテラ」は日本では「花賣娘」の邦譯名で親しまれてきましたが、原題を見れば即ち「菫賣娘」と判ります。彼女の歌唱は昭和10年前後に日本コロムビアから青盤で數枚出てゐました。ベストと申し得る「ヴェニ・ヴェン/ドニャ・マリキータ」のほか、「花賣娘」「おおセニョリータ」「バレンシア」「夢のフランス」などホセ・パデーリャの曲が多いですね。
 コロムビアの洋樂部(?)でメレの唄を聽き一瞬にして魅了された淡谷のり子は、直ぐに「ヴェニ・ヴェン」と「ドニャ・マリキータ」を吹き込んだと傳へられてゐます。其のカヴァー盤はCD化されてゐて3枚組《淡谷のり子名唱集》などで聽くことが出來ます。小津安二郎もメレの唄に魅せられた一人で、遺品の中に彼女の歌唱盤(SP)が何枚もあり、それはミスタンゲットの「サ・セ・パリ」など他の愛聽曲と共に《小津安二郎が愛した音楽》としてCD化されてゐます。
 メレの舞臺を見た日本人は少ないと思ひますが、シャンソン・バレエ・サーカス等の評論家として活躍した蘆原英了(藤田嗣治の甥)は若き日に巴里でメレの舞臺に接してをり、その折の印象などを『巴里のシャンソン』(1956年)に書き遺してゐます。舊師塚本邦雄もメレに就いて幾許かを熱く語つてゐます(『薔薇色のゴリラ〜名作シャンソン百花譜』1975年)。其の塚本先生は蘆原英了のシャンソン評論やレコード解説が殊の外お嫌ひで、事ある毎に扱(こ)き下ろしていらつしやいましたが、レコード・ジャケットに載る解説が提灯持ちめくのは當り前で、お説を伺ふたびに私は「あの商賣は自分の好惡など書き連ねたら最後、二度と口はかゝらないのに……」と思つて苦笑ひしてをりました。

 ラケル・メレ

 日本コロムビア盤「淡谷のり子名唱集」

 白水社版『薔薇色のゴリラ』

3:ジョゼフ・フォン・スタンバーグ(獨逸語讀みはヨーゼフ・フォン・シュテンベルク)は維納(ウィーン)から米國に移住した猶太系獨逸人の息子(本名はJonas Stemberg)で、米國にて映畫の世界に飛び込み成功を収めた人ですが、獨逸で「嘆きの天使」が製作された際に請はれて監督を引き受け、ディートリヒを見初めてハリウッドに伴ひ、短時間で彼女からゲルマン風の野暮つたさを拭ひ去らしめて窈窕たる美女に變身せしめ、あの「モロッコ」で世界的スターに仕立て上げたことは、よく知られた逸話であります。ディートリヒの傑作の過半は「間諜X27」「上海特急」「戀のページェント」「スペイン狂想曲」などスタンバーグ監督作品が占めてゐるやうに思ひます。「スペイン狂想曲」を最後にディートリヒはスタンバーグと訣別しますが、此處に載せたのは二人の蜜月時代を象徴するやうな一枚と申せませう。

 マレーネ・ディートリヒ

 「スペイン狂想曲

4,5,6:マーロン・ブランドジェームズ・ディーンポール・ニューマンは、エリア・カザンなどが指導に當たつてゐたニューヨークの演劇教室〈アクターズスタジオ〉の研究生で、然も同期生でした。3人とも映畫界に進出する譯ですが、まづブランドがチャンスを掴み、次いでディーン、ニューマンの順に成功を掌中にしました。此の三枚は、おそらくスタジオでの授業中の絡みを撮つたものでせう。ディーンは僅か3本に主演して早世しましたが、決まつてゐた次回作「傷だらけの栄光 Somedody Up There Likes Me」の代役に撰ばれてスターの座に就いたのがニューマンであります。

 ジェームズ・ディーン

8,9:8は「ジャイアンツ」撮影中の、9は「翼に賭ける命」撮影中のスナップでせう。9でハドソンと競演したドナヒューは、其の後「避暑地の出来事」や「スーザンの恋」などで人氣を博し若手二枚目として期待されたものゝ僅か5,6年で凋落、その後はB級作品に出て變質者や殺人鬼などを演じたやうですが、日本ではあまり公開されてゐませんね。ハドソンは西部劇や戀愛喜劇が當たり役とされ、タフガイのイメージで賣つた大スターでしたが、晩年エイズに弊(たふ)れてから「實はゲイである」とカミングアウトしました。業界内では周知の事實でしたが、公に告知した例は過去には無かつた由、『ロック・ハドソン〜わが生涯を語る』と題する自傳が邦譯されてゐます(昭和61年)。

 ロック・ハドソン

 トロイ・ドナヒュー

 『ロック・ハドソン〜わが生涯を語る』

10:1958年に「恋ひとすじに」(原題はChristine、原作はシュニッツラーの『戀愛三昧』)で共演した時、ドロンはまだ駈け出しの二枚目で汎歐州的なスターだつた西獨逸の美人女優シュナイダーの方がずつと格上でした。翌年、二人は國境を越えて同棲・婚約、此の一枚は其の頃のスナップ(多分に公式的な)であります。其の後、ドロンはルネ・クレマンルキノ・ヴィスコンティといふ佛・伊の巨匠の監督作品に主演、「太陽がいっぱい」や「若者のすべて」で好演を見せて絶大な人氣を獲得します。シュナイダーとは、ヴィスコンティの演出で「あはれ彼女は娼婦」といふ英國エリザベス朝の芝居(兄妹相姦劇)の舞臺(巴里にて公演)で共演しましたが、俳優としての地位が逆轉するや、ドロンは63年に婚約を破棄するに至りました。女たらし、男殺しの面目躍如といふところでせうか。因みに「恋ひとすじに」は凡作で、ドロンの美しさだけが際立つてゐました。

 「恋ひとすじに

 「太陽がいっぱい