半夏生とツィッター自分檢索
6月は全てに亙り不調の日々にて、更新を怠りました。訪れて下さる方々には寔に申譯なき仕儀にて、お詫び申し上げます。左手首の捻挫がまだ完治してゐないと申すのに、今度は〈ぎつくり腰〉となり、屈むと激痛が奔ります。
先月も天候不順でありましたが、月が替はつて急に夏らしくなり、數日前の夜には體長10糎を超える天牛(カミキリムシ)が飛來し、3日前の朝には郭公の聲を聞きました。此の邊りで見かける鳥は、鵯(ヒヨドリ)、椋鳥、尾長、白鶺鴒、雉鳩、青鷺などですが、どの鳥の巣に託卵するのでせうね。もしかすると、託卵先として有名な葭切(ヨシキリ)が千曲川の河川敷に棲んでゐるのかも……。
知人の勸めを容れて、WEB檢索とツィッター檢索に自分の名を打ち込んであります。WEBの方は表示が新着順ではなくアトランダムなので、また私のやうな者でも件數が萬を超えるので滅多に見ませんが、ツィッターの方は月に2〜3度、開いて覗いてゐます(ちなみに私はツィッターはやつてをりません)。誤解・無知に基づいた批判や惡意に充ちた呟きも時折見受けますが、まあ過半は好意的な記事であります。
今朝開いてみたら、一週間ほど前に「山尾悠子みたいな硬質な美しさのお話が書きたい。森茉莉の世界が好き。須永朝彦のおとぎ話みたいな耽美の世界が好き…でも××××(須永註:筆名らしいので伏せ字にしておきます)にあうのは山藍紫姫子の文体と世界観だと思う…やることはやってる」といふ呟きが……。山尾さんや茉莉さんと並べていたゞいて有り難いやうなものですが、でも此の方が目指す世界は〈やおい、BL〉なんですね。
更に2週間ほど遡ってみたら「半夏生透きゆく母と妹に霜降るまでの戀めぐるかな(須永朝彦『定本須永朝彦歌集』)……今日は半夏生だそうです。」といふ呟きが目に留まりました(呟き手は男性)。これまで殆ど脳裏に顯つこともありませんでしたが、自作(45年ぐらゐ前)だといふ覺えはあります。7月2日が半夏生(七十二候の一、夏至から11日目にて梅雨明けの頃)に當たるので引用なすつたのでせう。半夏生は派生的に植物の名稱にもなつてをりまして、此の腰折は季節を踏まへ乍ら件の草本を詠んだものであります。半夏生はドクダミ(私のPCでは漢字が打てません)科の多年草、梅雨明け前後に莖の頂きの葉2〜3枚が白變するのです(近所の庭で見かけたので一枝いたゞき撮影、其の寫眞を載せましたので御覽下さい)。無粹を承知で敢へて註すれば「透きゆく」は半夏生の葉と下の「母と妹」の變容のさま、此の母と妹はもちろん実在のものではありません。當時、己が厭ふべき存在として架空の家族(父・母・姉・妹など)を少なからず登場させてゐますが、いま顧みると殆ど佳い歌にはなつてゐませんね。此の歌など、半夏生の白變葉を下句の「霜」に照應せしめてゐるのが聊か煩はしく觀ぜられます。歌に限らず散文でも若書きのものは再讀すると氣恥づかしくなりますね。晩年、若書きの作に手を入れた作家は少なくありませんが、それで佳くなつた例はまづ見受けられません。