【歳末東京滯在略記】

 中旬に上京、數日間滯在しました。歸途、足利に寄つて18日に戻りましたが、翌日から體調よろしからず、歳末と申すのに寢たり起きたりといふ哀れなる有りさまです。

 11日(金)、當地を發つ時は小雨そぼ降る寒い朝でしたが、關東に入るや晴天と變り、東京に着くと氣温は20度を超えてまるで晴天の秋、着用してゐた革コートやマフラーが如何にも場違ひで、擦れ違ふ人の眼には〈お上りさん〉と映つたことでせう。

 此のたびも主なる目的は〈倶樂部トランシルヴァニア〉の忘年會で、12日夜、滯在先の吉村明彦さん宅に會員が集ひました。南條竹則さん、礒崎純一さん、小川功さん、服部正さん、森野薫子さんが出席。東雅夫さんは缺席。薫子さんは偶々歌舞伎觀劇の爲に京都から出てら來られるといふので、吉村・礒崎(幹事)兩氏の諒解を得た上でお誘ひしました。當日午後、銀座でNHKの柿沼裕朋さんと會ふことになつてゐたので、有樂町で薫子さんと待ち合はせ、三人で並木通りの松崎煎餅喫茶室にて暫し歡談。夕刻、柿沼さんと別れ、薫子さんを吉村邸にお連れしました。
 最近はめつきり酒精に弱くなり、暫しのつもりで横になるや即ち寢入つてしまつたやうで、皆さんがお歸りになつたのにも氣づかぬ始末、申譯なき次第でありました。向き向きにと考へて用意してきたDVDやCDを寢入る前に皆さんに渡しておいてよかつた……。

 13日は、前日柿沼さんから靜嘉堂文庫〈金銀の系譜〉展の招待券を頂戴したので、一見に及ぶべく吉村さんと二子玉川へ。生憎の小雨模樣でしたが、光悦・松花堂・信尹・宗達光琳・抱一・其一などの逸品に接することを得て堪能しました。この美術館は廣大な庭園の中にあり、雨天でなければ折しも盛んの紅葉を見て廻れたのにと、些かの名殘惜しさを覺えました。

 14日は、村上佳子さん(郡司正勝先生のお嬢さん)のお誘ひで國立大劇場の歌舞伎公演へ(薫子さんの観劇も此の公演で13日に御覽になつた筈)。演目は鶴屋南北の怪談狂言東海道四谷怪談」、〈通し狂言〉と謳つてゐますが、二部制を採らぬ國立劇場の上演時間(3時間半〜4時間)では全編の通しなど出來ない相談で、臺本には削除の大鉈が揮はれてゐます。
 此の芝居は太陰暦の文政8年7月、江戸・中村座「假名手本忠臣藏」の二番目狂言(いはゆる世話物)として書き下ろされたもので、即ち「義士傳」「太平記」の世界に則る作劇が施されてをり(當時、純然たる世話物=現代劇は上演禁止)、民谷伊右衛門・佐藤與茂七・小汐田又之丞・四谷左門(お岩の父)らは鹽冶(えんや)浪人(實説の赤穂浪士)、伊藤喜兵衛(孫娘の爲に伊右衛門・お岩夫婦の仲を裂く)は高師直(實説の吉良上野介)の家老……などといふ設定がなされてゐるのであります。零落して貧に喘ぐや、好きで娶つた妻を苛んで死に追ひ遣る伊右衛門は白塗りの二枚目で惡人(かういふ役柄を色惡と申します)ですから、南北の狙ひは「義士傳」を文政期の世相を反映させた「不義士傳」に書き替へてしまふところにあつたのかも知れませんね。因みに翌9年正月、大坂・角の芝居「いろは假名四谷怪談」以後は「忠臣藏」と切り離されて上演されるやうになりました。
 三世尾上菊五郎の爲に書き下ろされた此の芝居は、立役二枚目を本役とするも女形や道化役なども自在に演じ得る、役柄の幅が廣い役者(専門用語では〈兼ねる役者〉と謂ふ)向きに出來てをり、菊五郎はお岩・佐藤與茂七(これが本役)・小佛小平の三役を早替りで演じて評判を取りました。近代以降、六世尾上梅幸など眞女形がお岩さまを演ずるやうになりますが、其の場合、小平は演じても與茂七は遠慮して別に然るべき二枚目俳優を迎へる例が多いやうであります。昭和戰後の例を擧げれば、二世中村鴈治郎や十七世中村勘三郎中村勘九郎(後の十八世勘三郎)が三役を演じてゐます。勘三郎の三役(43年)は見ましたが、何分ぽつてりと肥えた體型ゆゑお岩も小平も哀れが薄く、死靈と化した後も愛敬が零れるやうで何だか喜劇めき、怪談向きではないと思ひましたね。
 眞女形の六世中村歌右衛門も31年以來何度か演じてゐますが、大体お岩・小平・小平女房お花の三役早替りで、私が見たものでは若い海老藏(暗闇で眼が光つた! 後の十二世團十郎)の伊右衛門を相手に勤めた48年9月歌舞伎座版が佳かつた(與茂七は息子の福助、後の梅玉)。此の時は、序幕の〈地獄宿(按摩宅悦が營む私娼窟)〉、四幕目の〈深川三角屋敷〉、大詰の〈夢の場〉もきちんと演ぜられ、削られたのはまづ出ることが無い〈小汐田又之丞隱家〉ぐらゐでした。尤も終演が22時をかなり廻つてゐたと思ひます。6年後の歌舞伎座再演では、もう〈地獄宿〉や〈夢の場〉は出ませんでした。眞女形のお岩さまは、何と申しても歌右衛門が傑出してゐました。前進座河原崎國太郎も好演(57年8月・國立劇場)でしたが、脇を固める役者の層が手薄でしたね。
 坂東玉三郎も演じてゐます(58年6月・歌舞伎座)が、あまり氣が乘らなかつたやうで、一度きりです。伊右衛門片岡孝夫(現・仁左衛門)。伊右衛門とお岩が若衆(わかしゆ)と娘の昔に歸る……お岩の死靈に取り憑かれて病む伊右衛門が見る夢、即ち〈夢の場〉は美形の二人には打つて付け、實に素敵でしたよ。此の時、演出を擔當してをられた郡司正勝先生が「此の場は、役者への氣遣ひでもあり、また見物衆へのサーヴィスでもある。暗い場面が延々と續いて神經をいたぶるからね」と仰つたのを今に忘れません。
 勘九郎(十八世勘三郎)はまづ大阪で演じた(63年7月・中座)後、平成4年6月に歌舞伎座の舞臺に掛けてゐます。〈地獄宿〉は出ましたが、四幕目は全て削除。松本幸四郎伊右衛門は、柄は合つてゐさうなのに、赤毛物の演りすぎか、歌舞伎特有の思ひ入れなどが何やら現代風で歌舞伎味が薄いやうな……。附き合ひで出たと思(おぼ)しき孝夫の直助權兵衛の好演の方が目立つてましたね。勘九郎の〈隱坊堀〉三役早替りはまづまづの出來ながら、上背が足りぬせゐか、樋ノ口(水門)から颯爽と現れる筈の與茂七の見せ場が萎んで映りました。
 今囘は、勘九郎版で伊藤の孫娘お梅(妻子持ちの伊右衛門に横戀慕する)に扮してゐた市川染五郎が三役どころか五役を演じました。早替り三役以外の二役は鶴屋南北(作者)と大星由良之助(實説の大石内藏助)です。由良之助は大詰に〈高師直館夜討〉を附け足したからで、南北(執筆時は71歳だつたのですが……)は此の狂言が「義士傳」の世界に據つてゐることを觀客に知らしめる爲でせう。發端として原作に無い〈鎌倉足利館門前〉を書き足したのは、珍しく四幕目の〈小汐田又之丞隠家〉を出すので、其の布石としたのでせうが、こんな事で新味を狙ふより、畜生道が描かれる〈深川三角屋敷〉を出した方がよつぽどいゝ。此の場が削られると、お袖(お岩の妹)に扮する役者の爲所(しどころ)は殆どありません。夜討の殺陣は派手ですが、歌舞伎本來のものでは無く、出番の少ない若手を引き立てる爲に新たに作つたものでせう。
 染五郎のお岩は、青年時に女形を手がけてゐた成果が出たやうで中々の出來。眼目の〈隱亡堀〉三役早替りもまづまづの出來、樋ノ口から現れる與茂七が殊に好く、そのあとの〈だんまり〉も惡くはありませんでした。問題は幸四郎伊右衛門でせうね。容姿もだいぶ衰へましたが、口跡が……、矢鱈と氣張つて音が歪(ひづ)みがちとなり、言語不明晰。染五郎伊右衛門が見たいですね。

染五郎の三役(劇場チラシ)

 15日は孤りで渋谷シネパレスまで出かけ、ベルトラン・ポネル監督の「サンローラン」を見たのですが、期待はづれでした。ポネルは、撮つたフィルムを全て使はないと氣が濟まぬタイプの監督とみえて、とにかく長すぎる。サンローランに扮したガスパールウリエルは「かげろう」「ハンニバル・ライジング」を見て佳いと思ひましたが、此の役は無理でしたね。唯一、興を覺えたのは、ヘルムート・バーガー演ずるところの晩年のサンローランがTVで映畫「地獄に墜ちた勇者ども」を見るシーンであります。御存じのやうに此の映畫はヴィスコンティに見出されたバーガーが世に出る契機となつたものであります。夕刻、吉村さんと池尻大橋驛で待ち合はせ、美味しい天麩羅の御馳走に與かりました。

 「サンローラン」日本版ポスター

 晩年のサンローランに扮したヘルムート・バーガー

 16日10時過ぎ、吉村邸を辭し北千住へ出て東武伊勢崎線特急〈りょうもう〉に乘車、足利へ。此の日は母の18囘めの命日ゆゑ墓參。母の遺品を整理してゐる姉が扇を澤山出して見せた中にサルトリイバラ(漢字變換ならず)を描いたものがあつたので貰つてきました。
 18日午後、伊勢崎線とJR兩毛線を乘り繼いで高崎へ。北陸新幹線に乘り換へて上田へ。更に〈しなの鐵道〉にて千曲まで、2時間40分ほどかゝりました。

 母の扇