中井英夫愛聽シャンソン★黒鳥忌に寄せて【12月22日:畫像追加】

 私は廿歳の春に中井さんと對面を果したものゝ、其の氣質や挙措に馴染み難いものを覺えて、
間もなく距離を置くやうになりました。其れに就いては河出書房版:道の手帖シリーズ『中井
英夫』などに記しましたので、此処に繰り返すことは控へます。
 共有可能な話題は幾つもありましたが、歌舞伎の話など必ず途中で拗(こじ)れました。たゞ
シャンソンに關してだけは珍しく好みが合ひ、其れは當時の師たる塚本邦雄先生よりも近いもの
が感ぜられたのであります。
 本日が黒鳥忌であるとは、今朝がたインターネットを覽(み)てゐて偶然に知りました。それ
ゆゑ何の下準備もないのですが、シャンソンが重要な役廻りを果してゐる『虚無への供物』の
展開に沿うて中井英夫愛聴の曲について聊かを記し、併せて當該曲目の音聲をも貼り付け、
お耳に届けることゝ致します。

 因みに「アドニス」版『虚無への供物』にはシャンソンの話題は全く出ません。ポルノ紛ひの
此の小説を一般讀書界に容れさせるべく濃厚なゲイ・テイストを抑へた上にて、奈々村久生なる
女性を狂言廻しとして登場させ、更に彼女をシャンソン歌手奈々緋紗緒に仕立て、また重要登場
人物の美少年氷沼藍司を無類のシャンソン好きに設定するといふ新たな構想が定まつて、初めて
作者は趣味のシャンソン愛好を役立てることが出來たのではないかと思ひます。
 奈々村久生は序章から登場します。場所は下谷・竜泉寺のバア〈アラビク〉、最初に聞こえる
シャンソンはリーヌ・クルヴェ(近年はクレヴェールと表記するやうであります)の《恐い病氣
よりまし》、でも此の歌は重要ではありません。
 久生曰く「一度でいいから、この人の《アルフォンソ》って唄、しみじみきいてみたいんだけ
ど」云々、此れは此の歌を一度も聽いたことのない作者の願望が其のまゝ投影されてゐるのです。
40「三枚のレコード」の末尾で此の唄が流れますが、もちろん久生は聞き逃します。作者が此の
唄を耳にするのは『虚無への供物』出版記念晩餐招宴の會場、其れに就いては塚本先生の「秘蹟
といふエッセイを御參照下さい。何はともあれ、まづは一曲、お耳に容れませう。


 https://www.youtube.com/watch?v=E0yxaS_Cu9E

 リズムは西班牙(スペイン)發祥のパソ・ドブレ、もとは鬪牛場で奏でられる勇壯な音樂です
が、これが舞踏曲となり、更にはカンシオン(歌謠)とも變じました。今でも競技ダンスのラテ
ンの部に此のリズムが殘つてをり、男性がパートナーを牛に見立てゝ踊る振りが見せ場になつて
ゐます。パソは拍子、ドブレはダブル、即ち二拍子の舞曲です。塚本先生は『薔薇色のゴリラ』
の中でマリ・デュバの《ペドロ》やリナ・ケッティの《ソムブレロとマンティーリャ》よりも佳
いと記されましたが、私はさうは思ひません。彼女の聲はちよいと騒々しい……、其れに本場の
西班牙にはラケル・メレの《エル・レリカリオ》やコンチャ・ピケルの《檸檬の木》など素晴ら
しいパソ・ドブレの歌唱が澤山ありますしね。クレヴェールの音盤は日本では2枚しか發賣されて
ゐませんが、YouTubeの檢索に歐文で彼女の名を打ち込むと直ちに十數曲が表示されます。女優と
しては脇の人でしたが、歌手としては人氣者だつたやうですね。

 私は8曲紹介するつもりなのですが、此の調子で書いてゐては夕食までに濟ませられさうもな
いので、いま少し簡明を心懸けませう。次なる歌は12「十字架と毬」(創元ライブラリー全集の
87頁)で、ラジオのシャンソン番組から流れくる(?)《小さな雛罌粟のように》、マルセル・
ムールージの出世作です。後に藍ちやんのアリバイにかゝはる歌です。ムールージは風采こそ
餘り上がりませんが、小説なども出してゐる才人、實にいゝ聲で、彼の《枯葉》は絶品ですね。
忘れな草や薔薇ならば、何かあつても不思議はない……」といふ歌ひ出しの此の唄は後でもう
一度登場します。

https://www.youtube.com/watch?v=7y-AD4a4l0g&nohtml5=False

 次は20「虚無への供物」、アラビクの2階での推理比べを終へて階下に下りたところで《薔薇色
の櫻と白い林檎の花》がちよつと話題に上ります(全集215頁)。此の歌は後にペレス・プラドに
よつてマンボに編曲された盤が世界的な大ヒットとなります。題名は《セレソ・ローサ》。爰では
アンドレ・クラヴォーの歌唱盤をお聽かせしますが、重要なのは寧ろプラド盤で、そちらには最後
に改めて觸れますね。

https://www.youtube.com/watch?v=BKuqd6Uy4lo
 
 次は27「予言者の帰国」終段の氷室邸、藍ちやんが牟礼田俊夫から貰つた佛蘭西製のLP盤を
久生と一緒にテープに録音する場面(全集307頁)、曲は《ガレリアン》、歌唱は勿論イヴ・モンタ
ンです。此の盤は初めて新宿區中井の塔晶夫邸を訪ねた廿歳の春、聽かされました。いゝ聲ですよ。

https://www.youtube.com/watch?v=RAi-ulGeLB0&nohtml5=False

 次は30「畸形な月」、「牟礼田はこうして、〈犯人〉の最後の一人までを消し去った。」の箇所、
藍ちやんが窓のカーテンを開けると畸形な赤い月が……、藍ちやん曰く「ぼく、あの唄(須永註:
ルナ・ロッサ)がシャンソンの中で一番好きさ。歌詞もすごくいいんだもの」(全集349頁)、此の
歌はもとは伊太利(イタリア)のカンツォーネですが、佛蘭西でも好評を博し幾人もの歌手が吹き
込んでゐます。爰では一番賣れたリュシエンヌ・ドリールの歌唱(日本盤曲名は《赤いお月様》)を
まづお聴き下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=rCFky4cIxe8&nohtml5=False

 次は48「三枚のレコード」、新宿三丁目シャンソン喫茶〈モン・ルポ〉に久生がアリョーシャを
呼び出した場面、備へつけのガラード75といふ自動式電蓄(SP盤用)からシャンソンが次々と流れて
きます。久生曰く「藍ちやんは、三つの殺人にふさわしい三つの唄を選んで、わざわざきかせていた
んだわ」云々。まづ《小さな雛罌粟のように》が再度の登場、今度は男聲コーラスグループのシャン
ソンの友(中井さんは〈シャンソンの仲間〉と表記)の歌唱です。同じ唄なのに歌ひ手が替ると趣が
がらりと變りますね。こちらはまるでお通夜のやう。(全集576〜579)

https://www.youtube.com/watch?v=tVtRR5QhJNk

次はエディット・ピアフの《ムッシュウ・ルノオブル》、此れは私の好みに合はぬ歌ゆゑアップしま
せん。三番目も再登場で《ルナ・ロッサ》、「五十歳をすぎたティノ・ロッシ」の嫋々たる歌聲が流
れます。「ルーナ・ロッサ、夜の女王よ、われらの狂氣を知りつくし、夜半の時うてば雲に隱れゆく
あなた、…………(全集580)


https://www.youtube.com/watch?v=T9lvlbD3-PU&list=RDwmR4MLV6_B0&index=26&nohtml5=False

 自説を滔滔と捲し立てたあと、アリーシャを從へて得意げに氷沼邸に向はんと喫茶店を飛び出して
ゆく久生、其の時ガラード75が「古びたレコード」突つき落とし、リーヌの蓮ッ葉な歌聲を響かせる
が、久生は氣づかない。「あの人つたら嘘ばつかり」

 扨々最後の曲はペレス・プラド樂團のミリオンヒット《セレソ・ローサ》です(全集666頁)。爰に
私のコメントはありません。其の夏、一際高鳴つて聞えたといふトランペットの音色をお聴き下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=4FgNOfiuf1w&list=PL1B43446B8AA785CA&index=31&nohtml5=False