DAVID BOWIE

 二日ほど前、TVのニュースでデヴィッド・ボウイの訃報に接しました。ロックは滅多に聽かないので、彼の音樂に就いては語る資格がありません。映畫は、試寫會やロードショーで何本か見てをります。「地球に落ちてきた男」「ジャスト・ア・ジゴロ」「戦場のメリー・クリスマス」「ハンガー」「ラビリンス 魔王の迷宮」「最後の誘惑」「プレステージ」など。
 此の中では1978年・西獨逸制作の「ジャスト・ア・ジゴロ JUST A GIGOLO」がいちばん好きです。日本ではサウンドトラック盤は早々に發賣されたものゝ肝心のフィルムが中々入つてこなくて、5年近く經つて諦めかけた頃に漸く公開が決まり、澁谷パルコの西武劇場で催された一晩だけの派手な試寫會に招かれて(新書館のツテ)見ることを得たのでした。
 ジョシュア・シンクレアの脚本は英國作家クリストファー・イシャウッドの一連の伯林(ベルリン)物の小説の流れを受けたもの(代表的な作品はブロードウェイ・ミュージカル「キャバレー」)で、第一次世界大戰後伯林のデカダンな風俗が描かれてゐます。ローズマリー・キングスランドが同名のノヴェライゼーションを執筆、これは邦譯が出ました。
 ボウイ演ずるパウロ・フォン・プルツィゴドスキーは士官學校出の美青年、西部戰線に赴くも負傷して歸還、第二帝國の榮光を失つて無秩序と頽廃がはびこる敗戰國の首都を彷徨しつゝ竟(つひ)には有閑婦人のお相手をつとめるジゴロに……。
 此のパウロを繞る人々のキャスティングが素敵で、デヴィッド・ヘミングス(從軍時のパウロの上官でゲイの國粹主義者。本作の監督を兼ねる)、シドニーローム(プルツィゴドスキー家の家政婦の娘でパウロの初戀の相手、後にキャバレーの歌手から柊林の女優へ。公爵と結婚)、マリア・シェルパウロの母。戰後零落した家を支へるためにサウナで働く)、キム・ノヴァク(元帥未亡人、パウロを誘惑し大邸宅にて同棲)、クルト・ユルゲンス(公爵)、マレーネ・ディートリヒ(男爵夫人、見目よき復員士官を集めてジゴロの館を營む)など、1920年代から80年代に至る世々のスターが顔を揃へてゐるのであります。
 サウンドトラック盤は、20世紀前半の歐州や中南米のエンターテインメント音樂を愛聽してきた私には實に好もしい一枚でありました。「サロメ」「ジョニー」「シャルメイン」「ブラック・ボトム」などダンス音樂が多いのですが、中でも米國の4人組(男女二人づつ)で見事なハーモニーを誇るザ・マンハッタン・トランスファーが歌ふ「I Kiss Your Hand,Madame」と「Jealous Eyes」が聽きものです。前者は日本でも戰前から人氣を博してゐる墺太利オーストリア)製のタンゴ「奧樣お手をどうぞ」。後者は1930年前後に歐州で流行したインストルメンタルのダンス・ナンバーで匈牙利(ハンガリー)のプスタ(大草原)をイメージした「草原のフォックストロット Puszta-Fox」、其のオリジナルとも言へるバルナバス・フォン・ゲッツィ楽團(獨逸タンゴ「碧空」の奏者として日本でも人氣を博す)の録音(わたくし鍾愛の一曲です)も「Jealous Eyes」の曲名で此のサウンドトラック盤に復刻されてゐます。映畫が公開されるまでの5年間、擦り切れるほど聽きましたが、竟にCD化されることがなかつたので、俗にいふ板起こしに長けた知り合ひに頼んでCDに燒いて貰ひ、今も何かの折には聽いてゐます。因みに出演者の歌唱はディートリヒの「ジャスト・ア・ジゴロ」のみ、ボウイの歌唱は入つてをりません。

サウンドトラック盤

ジャスト・ア・ジゴロ」VHS-VIDEO

ジャスト・ア・ジゴロ』ノヴェライゼーション邦譯本

【歳末東京滯在略記】

 中旬に上京、數日間滯在しました。歸途、足利に寄つて18日に戻りましたが、翌日から體調よろしからず、歳末と申すのに寢たり起きたりといふ哀れなる有りさまです。

 11日(金)、當地を發つ時は小雨そぼ降る寒い朝でしたが、關東に入るや晴天と變り、東京に着くと氣温は20度を超えてまるで晴天の秋、着用してゐた革コートやマフラーが如何にも場違ひで、擦れ違ふ人の眼には〈お上りさん〉と映つたことでせう。

 此のたびも主なる目的は〈倶樂部トランシルヴァニア〉の忘年會で、12日夜、滯在先の吉村明彦さん宅に會員が集ひました。南條竹則さん、礒崎純一さん、小川功さん、服部正さん、森野薫子さんが出席。東雅夫さんは缺席。薫子さんは偶々歌舞伎觀劇の爲に京都から出てら來られるといふので、吉村・礒崎(幹事)兩氏の諒解を得た上でお誘ひしました。當日午後、銀座でNHKの柿沼裕朋さんと會ふことになつてゐたので、有樂町で薫子さんと待ち合はせ、三人で並木通りの松崎煎餅喫茶室にて暫し歡談。夕刻、柿沼さんと別れ、薫子さんを吉村邸にお連れしました。
 最近はめつきり酒精に弱くなり、暫しのつもりで横になるや即ち寢入つてしまつたやうで、皆さんがお歸りになつたのにも氣づかぬ始末、申譯なき次第でありました。向き向きにと考へて用意してきたDVDやCDを寢入る前に皆さんに渡しておいてよかつた……。

 13日は、前日柿沼さんから靜嘉堂文庫〈金銀の系譜〉展の招待券を頂戴したので、一見に及ぶべく吉村さんと二子玉川へ。生憎の小雨模樣でしたが、光悦・松花堂・信尹・宗達光琳・抱一・其一などの逸品に接することを得て堪能しました。この美術館は廣大な庭園の中にあり、雨天でなければ折しも盛んの紅葉を見て廻れたのにと、些かの名殘惜しさを覺えました。

 14日は、村上佳子さん(郡司正勝先生のお嬢さん)のお誘ひで國立大劇場の歌舞伎公演へ(薫子さんの観劇も此の公演で13日に御覽になつた筈)。演目は鶴屋南北の怪談狂言東海道四谷怪談」、〈通し狂言〉と謳つてゐますが、二部制を採らぬ國立劇場の上演時間(3時間半〜4時間)では全編の通しなど出來ない相談で、臺本には削除の大鉈が揮はれてゐます。
 此の芝居は太陰暦の文政8年7月、江戸・中村座「假名手本忠臣藏」の二番目狂言(いはゆる世話物)として書き下ろされたもので、即ち「義士傳」「太平記」の世界に則る作劇が施されてをり(當時、純然たる世話物=現代劇は上演禁止)、民谷伊右衛門・佐藤與茂七・小汐田又之丞・四谷左門(お岩の父)らは鹽冶(えんや)浪人(實説の赤穂浪士)、伊藤喜兵衛(孫娘の爲に伊右衛門・お岩夫婦の仲を裂く)は高師直(實説の吉良上野介)の家老……などといふ設定がなされてゐるのであります。零落して貧に喘ぐや、好きで娶つた妻を苛んで死に追ひ遣る伊右衛門は白塗りの二枚目で惡人(かういふ役柄を色惡と申します)ですから、南北の狙ひは「義士傳」を文政期の世相を反映させた「不義士傳」に書き替へてしまふところにあつたのかも知れませんね。因みに翌9年正月、大坂・角の芝居「いろは假名四谷怪談」以後は「忠臣藏」と切り離されて上演されるやうになりました。
 三世尾上菊五郎の爲に書き下ろされた此の芝居は、立役二枚目を本役とするも女形や道化役なども自在に演じ得る、役柄の幅が廣い役者(専門用語では〈兼ねる役者〉と謂ふ)向きに出來てをり、菊五郎はお岩・佐藤與茂七(これが本役)・小佛小平の三役を早替りで演じて評判を取りました。近代以降、六世尾上梅幸など眞女形がお岩さまを演ずるやうになりますが、其の場合、小平は演じても與茂七は遠慮して別に然るべき二枚目俳優を迎へる例が多いやうであります。昭和戰後の例を擧げれば、二世中村鴈治郎や十七世中村勘三郎中村勘九郎(後の十八世勘三郎)が三役を演じてゐます。勘三郎の三役(43年)は見ましたが、何分ぽつてりと肥えた體型ゆゑお岩も小平も哀れが薄く、死靈と化した後も愛敬が零れるやうで何だか喜劇めき、怪談向きではないと思ひましたね。
 眞女形の六世中村歌右衛門も31年以來何度か演じてゐますが、大体お岩・小平・小平女房お花の三役早替りで、私が見たものでは若い海老藏(暗闇で眼が光つた! 後の十二世團十郎)の伊右衛門を相手に勤めた48年9月歌舞伎座版が佳かつた(與茂七は息子の福助、後の梅玉)。此の時は、序幕の〈地獄宿(按摩宅悦が營む私娼窟)〉、四幕目の〈深川三角屋敷〉、大詰の〈夢の場〉もきちんと演ぜられ、削られたのはまづ出ることが無い〈小汐田又之丞隱家〉ぐらゐでした。尤も終演が22時をかなり廻つてゐたと思ひます。6年後の歌舞伎座再演では、もう〈地獄宿〉や〈夢の場〉は出ませんでした。眞女形のお岩さまは、何と申しても歌右衛門が傑出してゐました。前進座河原崎國太郎も好演(57年8月・國立劇場)でしたが、脇を固める役者の層が手薄でしたね。
 坂東玉三郎も演じてゐます(58年6月・歌舞伎座)が、あまり氣が乘らなかつたやうで、一度きりです。伊右衛門片岡孝夫(現・仁左衛門)。伊右衛門とお岩が若衆(わかしゆ)と娘の昔に歸る……お岩の死靈に取り憑かれて病む伊右衛門が見る夢、即ち〈夢の場〉は美形の二人には打つて付け、實に素敵でしたよ。此の時、演出を擔當してをられた郡司正勝先生が「此の場は、役者への氣遣ひでもあり、また見物衆へのサーヴィスでもある。暗い場面が延々と續いて神經をいたぶるからね」と仰つたのを今に忘れません。
 勘九郎(十八世勘三郎)はまづ大阪で演じた(63年7月・中座)後、平成4年6月に歌舞伎座の舞臺に掛けてゐます。〈地獄宿〉は出ましたが、四幕目は全て削除。松本幸四郎伊右衛門は、柄は合つてゐさうなのに、赤毛物の演りすぎか、歌舞伎特有の思ひ入れなどが何やら現代風で歌舞伎味が薄いやうな……。附き合ひで出たと思(おぼ)しき孝夫の直助權兵衛の好演の方が目立つてましたね。勘九郎の〈隱坊堀〉三役早替りはまづまづの出來ながら、上背が足りぬせゐか、樋ノ口(水門)から颯爽と現れる筈の與茂七の見せ場が萎んで映りました。
 今囘は、勘九郎版で伊藤の孫娘お梅(妻子持ちの伊右衛門に横戀慕する)に扮してゐた市川染五郎が三役どころか五役を演じました。早替り三役以外の二役は鶴屋南北(作者)と大星由良之助(實説の大石内藏助)です。由良之助は大詰に〈高師直館夜討〉を附け足したからで、南北(執筆時は71歳だつたのですが……)は此の狂言が「義士傳」の世界に據つてゐることを觀客に知らしめる爲でせう。發端として原作に無い〈鎌倉足利館門前〉を書き足したのは、珍しく四幕目の〈小汐田又之丞隠家〉を出すので、其の布石としたのでせうが、こんな事で新味を狙ふより、畜生道が描かれる〈深川三角屋敷〉を出した方がよつぽどいゝ。此の場が削られると、お袖(お岩の妹)に扮する役者の爲所(しどころ)は殆どありません。夜討の殺陣は派手ですが、歌舞伎本來のものでは無く、出番の少ない若手を引き立てる爲に新たに作つたものでせう。
 染五郎のお岩は、青年時に女形を手がけてゐた成果が出たやうで中々の出來。眼目の〈隱亡堀〉三役早替りもまづまづの出來、樋ノ口から現れる與茂七が殊に好く、そのあとの〈だんまり〉も惡くはありませんでした。問題は幸四郎伊右衛門でせうね。容姿もだいぶ衰へましたが、口跡が……、矢鱈と氣張つて音が歪(ひづ)みがちとなり、言語不明晰。染五郎伊右衛門が見たいですね。

染五郎の三役(劇場チラシ)

 15日は孤りで渋谷シネパレスまで出かけ、ベルトラン・ポネル監督の「サンローラン」を見たのですが、期待はづれでした。ポネルは、撮つたフィルムを全て使はないと氣が濟まぬタイプの監督とみえて、とにかく長すぎる。サンローランに扮したガスパールウリエルは「かげろう」「ハンニバル・ライジング」を見て佳いと思ひましたが、此の役は無理でしたね。唯一、興を覺えたのは、ヘルムート・バーガー演ずるところの晩年のサンローランがTVで映畫「地獄に墜ちた勇者ども」を見るシーンであります。御存じのやうに此の映畫はヴィスコンティに見出されたバーガーが世に出る契機となつたものであります。夕刻、吉村さんと池尻大橋驛で待ち合はせ、美味しい天麩羅の御馳走に與かりました。

 「サンローラン」日本版ポスター

 晩年のサンローランに扮したヘルムート・バーガー

 16日10時過ぎ、吉村邸を辭し北千住へ出て東武伊勢崎線特急〈りょうもう〉に乘車、足利へ。此の日は母の18囘めの命日ゆゑ墓參。母の遺品を整理してゐる姉が扇を澤山出して見せた中にサルトリイバラ(漢字變換ならず)を描いたものがあつたので貰つてきました。
 18日午後、伊勢崎線とJR兩毛線を乘り繼いで高崎へ。北陸新幹線に乘り換へて上田へ。更に〈しなの鐵道〉にて千曲まで、2時間40分ほどかゝりました。

 母の扇

【いつかの二人☆柊林映畫篇】

「黒蘭の女」ベティ・デイヴィスヘンリー・フォンダ
 JEZABEL:Bette Davis and Henry Fonda,1938

「エリザベス」ベティ・デイヴィスエロール・フリン
 THE PRIVATE LIVES OF ELIZABETH AND ESSEX:Bette and Errol Flyn,1989

「時の終りまで」ガイ・マディソンとドロシー・マクガイア
 TILL THE END OF TIME:Guy Madison and Dorothy McCguire,1946

「ハネムーン」ガイ・マディソンとシャーリー・テンプル
 HONEYMOON:Guy Madison and Shirley Temple,1947

實弟とのスナップ

ガイ・マディソン:ブロマイド

第二次世界大戦後に人氣を博した二枚目スターですが、没後は殆ど顧みられぬやうですね。

「陽のあたる場所」エリザベス・テイラーモンゴメリー・クリフト
 A PLACE IN THE SUN:Elizabeth Tailor and Montgomery Clift,1951

「赤い河」モンゴメリー・クリフト RED RIVER,1951.

*此の作品でデビュー、二枚目俳優としての將來を期待されるも、身體の不調から酒や藥に依存するやうになり、1956年、エリザベス・テイラー邸のパーティに臨んだ歸途に交通事故を起し、顔面に傷を負うてしまひ、以降心身を病む日々を送ることに……。
 度々共演したリズ・テイラーが親身に接し勵ましたやうですが、再起を果たすことなく早世してゐます。リズは此のモンゴメリーの他にもジェームズ・ディーンロック・ハドソンなど、ゲイの俳優と親交を結んで最期を看取つてゐます。

「ペティコート作戦」トニー・カーティスケイリー・グラント
 POERATION PRTICOAT:Tony Curtis and Cary Grant,1959

空中ブランコトニー・カーティスバート・ランカスター
 GRAPEZE:Tony Curtis and Burt Lancaster,1965

「緑の館」アンソニー・パーキンスオードリー・ヘップバーン
 GREEN MANSIONS:Anthony Perkins and Audrey Hepburn,1959

「ローマの哀愁」ヴィヴィアン・リーとウォーレン・ビューティ
 THE ROMAN SPRING OF MRS.STONE:Vivien Leigh and Warren Beetty,1961

 *テネシー・ウィリアムズの中篇小説『ストーン夫人のローマの春』の映畫化、原作はそれとなくゲイ・テイストを仄めかせてゐる秀作。ヴィヴィアンにとつては最後から二番目の映畫、ウォーレン(最近は姓をベイテイと表記するやうです)にとつてはデビュー作「草原の輝き」に續いての出演作であります。
 さた過ぎたブロードウェイの名女優(かつて一世を風靡)が引退してローマを訪れ、ジゴロのやうな若者と交渉を持つ……、當時のヴィヴィアンには似合ひの役柄とも言へさうです。此の映畫のいま一つの見所は、「三文オペラ」などで知られる劇作家クルト・ヴァイルの未亡人ロッテ・レーニャが怪しげな稼業(裕福な紳士や婦人に見榮えのする若者を斡旋)に勤しむ没落貴族テッリビリ=ゴンザレス伯爵夫人を好演(怪演!?)してゐることであります。

蕗の薹――春の豫兆

 今日は春の彼岸の中日でしたが、陽が差しても風は冷たく暖房もこれまで通りです。それでも建物の敷地内に蕗の薹(蕗の花)が芽を出してゐますから、春の訪れまでいま少しの辛抱でせう。如月このかた雪に降り籠められて鬱屈の日々でありました。所用もあることゆゑ、今月末か來月初め、気散じに東京へ出かけようと思つてゐます。それまで北村一輝の「猫侍」が上映されてゐるといゝのですが……。

蕗の薹

冠着山(姨捨山)も未だ冬模樣

「猫侍」

いつかの二人《畫面の外で》ラケル・メレ追補

 今月8日にアップした【いつかの二人】に掲載した《チャーリー・チャップリンラケル・メレ》記事中のラケル・メレと蘆原英了に就いての追補です。
「……蘆原英了は若き日に巴里でメレの舞臺に接してをり、その折の印象などを『巴里のシャンソン』(1956年)に書き遺してゐます」と記しました。メレの舞臺に關する記述は確かにありますが(「トウル・ド・シャン」といふ項の中で2頁餘)、此れより早く1936年、雜誌『東寶』に「ラケル・メレを語る」と題する一文を寄稿してをり、此のエッセーが没後に刊行された『シャンソンの手帖』(1985年・新宿書房【蘆原英了の本】全三巻中の一冊)に収録されてゐた(四六判で6頁餘)のを思ひ出し、久しぶりに讀み返しましたら、『巴里のシャンソン』中の記事は「ラケル・メレを語る」を約(つゞ)めた體のものでありました。1936年の記述から少し引用しておきませう(雜誌掲載時は舊字體舊假名遣であつた筈ですが、今は『シャンソンの手帖』の表記に從つておきます)。

「私が彼女の実物に接したのは一九三二年の暮の巴里のことである。シャンゼリゼ通りの映画館で彼女の主演発声映画『帝国の菫』が封切された、その初日の晩であった。彼女はそのフィルムの封切記念に舞台に現れて歌ったのである。(中略)
 ラケル・メレはこのフィルムの始まる前に、この映画で歌われた主題歌を五つ六つ歌った。その主題歌というのは特に作曲されたものでなく、すでに彼女の唄として有名なもののみであった。もちろん、私もレコードで知っているものであった。彼女は五人ばかりのオーケストラの伴奏で、唄のたびごとに扮装を変えて歌った。その扮装は映画の中で着られたものであった。(中略)
 その後、アルアンブラというミュージック・ホールで彼女のトゥール・ド・シャンを聞いた。この時は、アルアンブラ・ガールズに取囲まれて歌い、演出がよかったのでなかなか素晴らしいものであった。彼女はこの時、お得意の『菫売女(ヴィオレッテラ)』を歌った。菫の花を一杯に入れた花籠を抱いて彼女はこの唄を歌った。およそ世の中にこんな甘美な声がまたとあろうかと思った。こんな魅惑に富んだ、こんな人の心にまつわりついてくる声があろうかと思った。」

蘆原英了『シャンソンの手帖』『巴里のシャンソン

シャンソンの手帖』中のラケル・メレの記事

映畫『帝國の菫 VIOLETAS IMPERIALES』の中でメレが歌つた「ドニャ・マリキータ」の樂譜表紙(CDブック『siete CUPLETISTAS DE ARAGON』より)

 メレのレパートリーは西班牙(スペイン)のcuples、日本流に申せば所謂(いはゆる)歌謡曲であります。たゞ、巴里を本據地にして活躍した人ですから、西班牙語で歌ひながらも、他の歐羅巴人が西班牙に對して抱く異國情緒を滿足させるやうな唄、例へばホセ・パディーリャの曲などが多かったのであります。彼女の「ドニャ・マリキータ」には聽くたびに陶然とさせられますが、その歌ひ廻しは他のクープレ歌手の其れとは全く違つた獨得なものと感ぜられるのです。「ドニャ・マリキータ」を、カンテ・フラメンコの名手ニーニャ・デ・ロス・ペイネスが歌つた、此れまた素晴らしいレコードがあるのですが、テンポが3倍くらゐ速くて同じ唄とは思へぬほどであります。
 私が彼女の唄を知つたのは十代の終りの頃(1960年代中頃)ですが、當時はセット物のアンソロジーLP(Anoradas Canciones de Hispano Americaなど)に3曲くらゐ収められてゐただけで、あとは古いSPレコードを探して聽くより術(すべ)がありませんでした。それがCD時代に入るや、西班牙や佛蘭西で彼女の古い音源が陸續と復刻され、ネット上で簡單に購入出來るやうになつたのには喜ぶ前にまづ呆れましたね、「あの頃の苦勞は何だつたのだ!」と……。

ラケル・メレの海外盤CD