いつかの二人☆邦畫:昭和戰後作品

【いつかの二人☆邦畫:昭和戰後作品①松竹大船作品】

「君の名は」第二部:佐田啓二北原三枝

 昭和28年:松竹映畫、監督:大庭秀雄、共演:岸恵子淡島千景高橋貞二・他
 北原三枝はNDT(日劇ダンシングチーム)5期生、昭和27年松竹映画部に移籍、昭
和28年に新生日活に移籍、「狂った果実」で共演した石原裕次郎と結婚して昭和35年
引退。「君の名は」は菊田一夫原作の擦れ違ひメロドラマで、NHKラジオで放送中か
ら未曽有の人氣を博してゐました。北原三枝が演じたのは佐田啓二扮するところの後宮
春樹(あとみやはるき)に報われぬ戀慕を寄せて竟(つひに)は摩周湖に身を投げて死
んでしまふアイヌの娘、長い髪が似合ふちよつと野性的な、當時としては日本人離れの
した美しさでありました。
 第二部の插入歌として作曲された古関裕而(こせきゆうじ)の「黒百合の花」が流れ
る場面があつたと思ひますが、其のドラマティックな歌聲に幼い私は瞬時にして魅了さ
れました。然し、大人たちから「歌つてゐるのは織井茂子といふ歌手で、北原三枝では
ない」と聞かされて唖然呆然としたことを覺えてゐます。此の歌は今も大好きで、何か
の折には遇(ふ)と口遊(くちず)さんでしまひます。「黒百合は魔物だよ、花の香り
がしみついて、結んだ二人は離れない……」。

https://www.youtube.com/watch?v=cQqW1u05UMQ
Youtube:動畫「君の名は」第二部*佐田啓二岸惠子北原三枝
 「黒百合の歌」 歌唱:織井茂子 作詞:菊田一夫


「陽は沈まず」淡島千景月丘夢路

 昭和29年:松竹映畫、監督:中村登、共演:佐田啓二高橋貞二岸恵子・他
 佐田・岸・高橋ら若手スターが主役で、此の二人は為所(しどころ)の多い脇役です
ね。當時〈大船調〉と稱された松竹の現代物、それもオールスター物はどれも似たやう
な印象があり、觀た覺えがあるやうな無いやうな……。淡島も月丘も寶塚歌劇の出身で
す。寶塚から映畫界に移つた人は枚擧の暇も無いほど多いのですが、男役よりは娘役の
方に成功者が多いやうです。淡島も月丘も娘役で、他に乙羽信子新珠三千代・有馬稲
子・八千草薫浜木綿子朝丘雪路黒木瞳・等々、比べて男役では越路吹雪が女優と
して歌手として大成功を収めたものゝ、あとは大地真央天海祐希ぐらゐしか思ひ當り
ません。
 淡島は先輩月丘の成功に示唆を受けて映画界に移つたとか、共にスターの地位に登り
ましたが、松竹から新生日活に移り井上梅次監督と結婚した月丘は新たなスター達(石
裕次郎小林旭)の擡頭を受けて主役の座から遠離(とほざか)らざるを得なかつた
やうです。一方、フリーに轉じて獨身を通した淡島は各社のフィルムに精力的に出演し
夫婦善哉」(監督:豊田四郎、共演:森重久弥)、「殘菊物語」(監督:島耕二、
共演:長谷川一夫)、「日本橋」(監督:市川崑、共演:山本富士子)、「鰯雲」(監
督:成瀬巳喜男、共演:二世中村鴈治郎)など後世に殘る作品を幾つも殘してゐます。
 名作だとは申しませんが、私が時々観たくなるのは「雪之丞変化」の輕業お初、此の
フィルムに就いては【東映京都作品】の項にて記すつもりです。

 佐田啓二月丘夢路


【いつかの二人☆邦畫:昭和戰後作品②松竹京都作品】

「修羅櫻」森美樹(右)と松本錦四郎

 昭和34年:松竹映畫、監督:大曾根辰保
 松竹二千本記念作品の由にて、脚本は當時名聲のあつたエンターテインメント系作家
5人(江戸川亂歩・角田喜久雄・陣出達朗・村上元三・城左門)の合作。徳川家齋
治下、筆頭老中の幕府轉覆の企みに巻き込まれて艱難辛苦の運命を辿る兄弟の話で
あります。兄弟には森美樹と松本錦四郎が扮し、高橋貞二山田五十鈴高田浩吉
近衛十四郎・嵯峨三智子・富士真奈美花菱アチャコ伴淳三郎毛利菊枝・伊藤
雄之助・等々が脇を固めてゐますが、此の手のオールスター物にありがちな主要俳優の
顔を立てる演出が禍ひして、出來榮えは芳しくありません。
 兄弟役を演じた二人は、奇(く)しくも共に瓦斯中毒で亡くなつてゐます。
 森美樹は從來の時代劇俳優とは相當に趣を異にする容姿にて、少年の私は〈一種違和
感を伴ふ魅力〉とでもいふやうなものを覺えた記憶があります。6年間に22本の映畫に
出演、沖田総司坂本龍馬・中山安兵衛・宮本武藏などを演じたほか、現代物にも出て
ゐます。松竹も力を入れ、また人氣も高かつたのですが、昭和35年12月4日、就寝中に
瓦斯中毒で事故死、スポーツ新聞の藝能欄に早世(26歳)を惜しむ記事が載つてゐたの
を覺えてをります。

 森美樹(ブロマイド)

 松本錦四郎は幼少時に上方舞を習つてゐた由ながら、長じて俳優を志し日活映画第三
期ニューフェースに應募して合格(同期に小林旭)、穂高渓介の藝名にてデビューする
も、二年後は歌舞伎界に身を移し、八世松本幸四郎の門弟となります。松本錦四郎とい
ふ藝名は此の折に得たわけですが、間を置かず松竹の映畫部門に移籍、「七人若衆誕生
で時代劇デビューを果します。當時、時代劇は東映が全盛、次いで大映、松竹はかなり
水をあけられてゐました。新人七人を起用した此のフィルムは時代劇再興の目玉として
製作されたものでせうが、中村錦之助東千代之介大川橋蔵・伏見扇太郎・里見浩太
郎らを擁する東映時代劇の人氣には太刀打ち出來ませんでした。七人の中で大成したの
林与一(初代中村鴈治郎の玄孫)のみ、花ノ本寿は日本舞踊の世界に戻つてゐます。
錦四郎は2年間に數本の作品に出演しましたが、松竹が時代劇から撤退したため、TV
に進出し、一時は連續時代劇の主役(昭和38年「噂の錦四郎」)を射止めました。然し
此れを最後に主役はおろか出演機會も減り續け、昭和48年1月、失意の裡(うち)に瓦
斯自殺を遂げた(39歳)と傳へられました。

 松本錦四郎「高丸菊丸」