高原列車で甲斐の國へ

 四年近くもお目にかゝつてゐないので、思ひ立つて先日(8日)石堂藍さんに會ひに
北杜市まで行つてまゐりました。隣縣とは申すものゝ、車を持たぬ身ではローカル線を
乘り繼いで行くよりほかに致し方がありません。
 最速で行けるのは、しなの鐵道(昔の國鐵信越本線)とJR小海線の乘り繼ぎですが、
目的地の小淵澤まで3時間餘りかゝります。小海線には全線を走る列車が少ないので、
早朝出發であります。普段通り5時過ぎに起床して支度を調へ、しなの鐵道千曲驛7時
23分發の電車に乘車、8時過ぎに小諸驛にて降り、小海線のホームへ。拍子抜けするほ
ど乘換へは簡單でした。全線2時間10數分かゝる(各驛停車で快速の類は無し)せゐで
せう、二輛編成なのにどちらにもトイレットがありました。此の路線は非電化で、気動
車といふものが走つてゐます。

 小諸から十數驛の沿線光景(小諸〜佐久)は、田畑と住宅が混在する、しなの鐵道
沿線と餘り變りませんが、小海驛を過ぎるや俄然高原鐵道らしい光景が展かれました。
更に先の野辺山高原驛(八ケ岳東麓)にはJR鉄道最高地点(1375米)の標識あり、
また此處は〈中央分水界〉でもある由です。此の邊り(海尻甲斐小泉)は標高1000米
を超える高地にて、松原湖海尻佐久海ノ口佐久広瀬信濃川上・野辺山・清里
甲斐大泉甲斐小泉の9驛がJRの高地驛ベスト10に入る由であります。お天氣は快晴、
單線路の兩側には樹々の葉が迫り、緑陰鐵道とも申すべき趣き、甲州に入ると驛の附近
を除けば人家も見當りません。かゝる次第にて、さして退屈することもなく、10時30分
頃、爽やかなる心地で小淵澤に着きました。驛頭では洋風の綾羅(うすもの)とも申す
べき涼しげな夏衣裳の石堂さんが出迎へて下さいました。

 車で5分ほど、近くのリゾナーレといふリゾートホテルにちよつと佳い珈琲店がある
からと、お連れいたゞきました。軽井澤を創業の地とする丸山珈琲の第二店、ホテルの
中央廣場に面してゐて、廣場にも席が設けられてゐたので、日陰で涼風の通る其の席に
腰を下ろしました。普段なら温かいのをいたゞくのですが、列車内での水分補給が出來
なかつたので冷珈琲を註文、其の邊のものと違つて氷も適量で美味、應對も申し分あり
ませんでした。
 まづは久闊を叙して歡談、他聞を憚る話題にも及びましたが、差し障りのないものに
就いて少し觸れておきませう。翌日、石堂さんのツィッターを拜見しましたら『源氏物
語』の話が呟かれてゐました。


石堂藍 @PiedraIndigo ・ 8月9日
昨日は須永朝彦さんが小海線を踏破なさって小淵沢までおいでになったので、久しぶ
りにお目にかかって歓談することが出来た。『源氏』をまた読みたい、とおっしゃっ
て、柏木の猫がね〜とお話になる。須永さんは猫好き。あのくだりには確かに異様な
エロティシズムが漂っている。】


 さうわたしは『源氏物語』が大好きで、十代の頃、愛誦歌人與謝野晶子の譯本が呼
び水となり原典に觸れました。その後、谷崎潤一郎円地文子の譯も含めて何度も讀み
返し、素敵な逸話や各巻の登場人物名など空で言へるやうになりました。それでも、
もう一度原文を讀み返したいと思ふところが隨所にあるのです。殊に現代語には替へ
難いといふか、移し難い獨得の修辭など。其の一つ、柏木の猫に關しては、かつて
サライ」誌の《この一冊》といふ欄のインタビューに應へて次のやうに喋つたことが
あります。

 「『若菜』の巻では猫がきっかけとなって柏木という貴公子が、光源氏中年からの
 正室女三宮(おんなさんのみや)と密通します。女三宮の形代(かたしろ)として
 件の猫を可愛がる柏木を見て、彼に仕える女房たちが「あやしく、にはかなる猫の、
 時めくかな」と陰口を叩きます。「新参猫が不思議と御寵愛を受けておりますわね」
 となるのでしょうが、現代から顧みても面白く、かつリアリティの観じられる表現
 です。『源氏物語』には、こうした瑣末的な部分から得られる愉しみが沢山あるの
 です。」

 ほかに光源氏の美しさを語る表現にも觸れてをり、其の條(くだり)に就いても石堂
さんに話しましたが、其れに就いては「ビジュアル源氏物語」第85號:野分2にも書い
たことがありますので、そちらから引用しませう(元稿は新假名遣ひ)。

 「物語ゆゑ登場人物の大方は美貌である。ただ、原文で讀むと、形容が簡潔なので、
 容貌を想像するのが聊か難しい。光源氏はもとより欠くる所なき美男として描かれて
 ゐる。六、七歳にして品位と艶(つや)めかしさを兼備した、この世の物とは思はれ
 ぬ美貌(なまめかしう恥づかしげにおはすれば……/この世の物ならず清らかにおよ
 ずけ給へば……)の持主で、弘徽殿腹の皇女(ひめみこ)より遙かに美しかつたとあ
 る。彼の美貌は母譲りに違ひないので、母と酷似する藤壺の宮も源氏とよく似てゐた
 筈であり、〈光る源氏〉と〈かがやく日の宮〉の形容詞は交換可能と思はれる。桐壺
 更衣・光源氏藤壺の宮・冷泉帝の四人は同じ顔だと想像しても差閊へないだらう。
  源氏の美貌は元服後も變らず、却つて精彩を増すのだが(あさましう、うつくしげ
 さへ添ひ給へり)、この世の物ならぬ彼の美しさを最も端的に示す描寫は『紅葉賀』
 の試樂の條、後宮の婦人達が見まもる中、御所の庭で十八歳(數へ年ならん)の源氏
 が「逭海波」を舞ふ場面であらう。
  まづ、共に舞ふ頭中将を「花のかたはらの深山木(みやまぎ)」と形容して差別、
 源氏の舞の見事さと容姿の美しさを際立たせる。そして、源氏を仇敵視する弘徽殿
 女御(東宮の母)に「神など、空にめでつべきかたちかな。うたて、ゆゆし」と言は
 せるのだが、これは源氏の美貌を逆照射させて實に効果的である。」


石堂藍 @PiedraIndigo ・ 8月9日 わたくしは「野分」がわりと好き。義理の母との
姦通という前科を持つ父親が、自分も同じ目に遭うのを恐れて、息子に触れさせないよ
うにしていた紫を、息子が垣間見て衝撃を受ける。最終的には夕霧は父親の轍を踏まな
いのだが、その危ういところ。遊び人の父を持つ、有能な息子の微妙な雰囲気。】


 當日、此の話は語られませんでしたが、私も此の條は好きです。『源氏』を三度も譯
した(「若菜」まで進んでゐた二度目の譯稿は大正大震災で燒失)與謝野晶子は「雲隱
れ」の巻を除く五十三帖夫々(それぞれ)の趣きを歌に詠んでゐます。
  ☆けざやかにめでたき人ぞいましたる野分が開くる繪巻の奥に
 此れが「野分」の巻に寄せた一首、石堂さんの仰った夕霧隙見(すきみ)の情景を巧
みに詠み込んでゐますね。
  ☆若やかに鶯ぞ鳴く初春の衣(きぬ)配られし一人のごとく    「初音」
  ☆盛りなる御代の后(きさき)に金の蝶しろがねの鳥花たてまつる 「胡蝶」
  ☆身に沁みて物を思へと夏の夜の螢ほのかに逭引きて飛ぶ     「螢」
  ☆露置きてくれなゐいとど深けれど思ひ惱める撫子の花      「常夏」
  ☆大きなる檀(まゆみ)の下(もと)に美しく篝火もえて涼風ぞ吹く「篝火」
「初音」「胡蝶」「螢」「常夏」「篝火」、そして「野分」と續く六巻は、其れまで源
氏一家を覆つてゐた霧(難題や懸案の類)が霽れ、六條院の春夏秋が趣き裕(ゆたか)
に描かれてをり、讀者にとつても穩やかに氣分よく讀み進められる巻々だと思ひます。
 晶子の『源氏』五十三首は、『榮華物語』二十一首、『平家物語』六首と共に「繪巻
のために」と題されて、第十九歌集『流星の道』に収められてゐます。
「野分」のあとは「行幸」「藤袴」「眞木柱」「梅が枝」と續き、三十九巻目の「藤の
裏葉」で源氏の權勢は絶頂に達するので、物語は此處で幕を閉ぢてもいゝやうなもので
すが、作者は筆を擱きません。源氏、紫の上、朱雀院、柏木などが憂き思ひに沈む、あ
の長い長い不吉な巻「若菜」が始まるのであります。


石堂藍 @PiedraIndigo ・ 8月9日 須永さんとの古典の話では、ほかに『室町時代
語大成』読めないですよね〜という話題が出た。どこで文章切るんだ?みたいな感じだ
からw 仮名遣い、あるいは正字問題も、須永さんは自分の審美眼で通している。絶対に
正しい旧仮名遣いなんてものは存在しないから。】


 石堂さんは文學事典の編纂・執筆なども手がけていらつしやるから、かういふ叢書に
も目を通してをられるのです。此の『室町時代物語大成』は、大雑把に〈御伽草子〉と
呼ばれてきた室町時代の短篇(此の時代の長篇は『太平記』などの軍記物のみ)を集成
したもので全十五巻、1980年代に角川書店から刊行されました。
 原典は漢字は少なめ、變體假名を多用した毛筆の手書き本で、句讀點も振り假名もあ
りません。變體假名や漢字の草書に通じてゐないかぎり、まづ讀めないでせうね。此の
叢書の編纂者は全てを讀み解いた上で、そつくりそのまゝ現代の活字體(變體假名の活
字といふものは無いので、假名は現行の五十音)で再現させた、つまり研究の基本とな
るテクストを作り上げた譯で、寔(まこと)に立派なお仕事と申さねばなりません。で
も研究者でない者には讀めません。此のテクストもまた句讀點・振り假名・改行があり
ません。假名遣ひも中世・近世・近代では異なりますから「どこで文章切るんだ?」と
いふ歎きも生ずるのであります。
 明治以降に刊行された古典の活字本は、各作品を擔當した國文學者が校訂(假名に妥
當なる漢字を當て嵌め、ルビを振り、句讀點を打ち、改行を施す)を加へて讀者の便宜
を圖つたものなのです。
 私は曾て《日本古典文学幻想コレクション》といふ三巻本の編譯を擔當した時、參考
にした御伽草子の研究書にヒントを得て「子易(こやす)物語」といふ物語も撰んで
加へたのですが、讀み易い校訂本が出てゐなかつたものですから『室町時代物語大成』
収録のテクストを用ひました。一瞥して暗澹たる心地となりました。漢語(多くは佛教
語)が殆ど假名表記だつたからです。懺法・補陀洛山・迦羅陀山・兵亂・衆生利益・
比翼連理……などが全て假名で表記されてゐて、句讀點なしの棒のやうな文章の中に
紛れ込んでゐました。半日ほど考へた末に、まづ現代語譯用のテクスト(校訂本)を
自分で作ることにしました。短いものなのですが、一週間ぐらゐかゝりましたね。
石堂さんと話してゐて斯樣なことも思ひ出してゐたのでした。



 午後には飯田克比呂さんが東京から見えて合流、石堂さんの御案内で白州といふサン
トリーのウィスキー醸造所へ赴き、レストランで遲めの晝食をいたゞきました。施設は
廣大な自然林の中に點在、試飲も出來るとのことでしたが、私が歸途に乘る豫定の列車
の發車時刻が迫つてをり、今囘は諦めました。比呂さんには新調PCに就いていろいろ
教へを受けるつもりでしたが、これも再たの機會にといふことで、送つていたゞいた小
淵澤驛から3時6分發の小海線に乘車、慌たゞしきことにて、お二人には申譯なく存ぜ
られました。比呂さんは、石堂さんの車で清里や八ケ岳山麓を廻られた由、後から伺つ
てちよつと羨ましく思ひました。
 往路の逆を辿つて3時間餘、6時15分頃、千曲に戻りましたが、往復6時間餘の列車
行は流石に身に應へて、沐浴・夕食もそこそこに就寝致しました。

 此方に引越す際に比呂さんから贈られたデジカメを持參したのに、白州以外の所では
殆ど撮影出來ませんでした。歸路も車窓から撮影を試みたものゝ硝子にいろんなものが
寫り込んで巧くゆきません。奇跡的(大袈裟な……)に一枚だけ、長野側から見た八ケ
岳の山容が撮れたので御覽に供します。

 【追補】
 高原列車に乘つてきたのですから、何か其れらしい歌を貼り附けようと思ひながら
打つてゐるうちに忘れてしまひました。昔の歌謡曲には〈高原もの〉といつたやうな
小ジャンルがあつて、私も幼少時に聽いたメロディが幾つか耳に殘つてゐます。 
「汽車の窓からハンケチ振れば 牧場の乙女が花束投げる……」といふ出だしで始まる
のは「高原列車は行く」といふ長調の明るい歌ですけど、此の歌詞、ちよつと變ですね。
「しばし別れの夜汽車の窓よ 云はず語らずに心とこころ……」と歌ひ出すのだから、
此れは短調で「高原の驛よさやうなら」といふ演歌です。私がいちばん佳いなと思つた
のは「高原の旅愁」ですが、此れは戰前昭和15年の發賣、昔の唄は長く親しまれたので、
戰後でも聽けたのでせう。伊藤久男の持ち歌ですが、SP盤使用で音があまり良くあり
ません。そこで滅法歌の巧いセミプロみたいな正體不明の男聲のカヴァー歌唱も貼り
附けておきませう。こちらの映像は高峰三枝子佐野周二関口宏の父)共演の松竹
映畫『高原の月』(昭和17年)が使はれてゐます。ちあやんと歌詞にも信濃路といふ
言葉が出てきますよ。因みに、男性が歌つてはゐますが、歌詞は女性の一人稱です。

 ★伊藤久男
 https://www.youtube.com/watch?v=dkTzsHlTZBI&nohtml5=False

 ★SU SU(男女數人から成る歌唱集團か?)
 https://www.youtube.com/watch?v=lIBQxdm-ZvY&nohtml5=False