＊MY FAVORITE SONG ⑤ラケル・メレ「ドニャ・マリキータ」

　ラケル・メレ(Raquel Meller 1888〜1962)は西班牙語圏の歌手の中では最も好きな女聲です。
彼女に就いては、2013年に聊かを記してゐます。

　◎11月８日　いつかの二人☆映畫篇＊洋畫《畫面の外で》チャップリンとラケル・メレ
　◎11月15日　いつかの二人《畫面の外で》ラケル・メレ追補

　メレの全盛期は1920年代30年代で、日本でも昭和10年前後に10曲ほど（ＳＰ盤５枚）が發賣
されてゐますが、戰後は覆刻される事もなく、LP時代に入つてから漸く３曲が聽けるやうになり
ました。昭和37年（1962）、日本コロムビアが創業50周年を記念して《懐しの世界ヒット･メロ
ディ大全集》といふ30糎LP３枚組のアルバム全10集を發賣しました。すべて戰前の録音で、映畫
音楽、コンチネンタル･タンゴ、ハワイアン、シャンソン（タイトルはフランス・ヒットメロディ
ー集）などジャンル別に編集したものです。
　其の第７集は『想い出のラテン･ミュージック　ヒット・アルバム』と題してヒスパニック圏
すなはち西班牙（スペイン）と中南米諸國の20世紀前半に流行した俗謠（オデオンなどEMI系の
録音）を〈ミリオン･ヒット〉〈トロピカル〉〈アルゼンチン･タンゴ〉の三種に分けて編輯した
アルバムです。夙にタンゴやアフロ・クバーノ（黒人系キューバ音樂）に魅せられてゐた私は
此れを購入、カートン･ボックス入りの素敵なアルバムでした。しかし當時の高校生（16歳）に
とつて頒價3000圓は容易には手の出し難い金額でありました。書籍・音盤を購ふ爲に無駄遣ひを
慎み蓄へておいた小遣ひ・お年玉のほゞ全額を注ぎ込んだことを今に忘れません。
　
　『想い出のラテン･ミュージック　ヒット・アルバム』廣告(雜誌「ジュークボックス」)

　メレの歌唱は〈ミリオン･ヒット〉に「花賣娘」「ヴェニ・ヴェン」「ヴァレンシア」が収録
されてゐましたが、此の時點で私は彼女の歌など全く知りませんでした。〈ミリオン･ヒット〉
にはメレのほかにもインペリオ・アルヘンティーナ（西班牙語圏に君臨した亜爾然丁出身の歌姫
なれど……）やコンチータ・スペルヴィア（西班牙出身の素晴らしきメゾソプラノ）の歌も収め
られてゐますが、孰れも初めて接する女聲でした。
　後に知つたことですが、メレと言へば「花賣娘（正しくは菫賣娘）」といふのが通り相場です。
しかし此のハバネラには「嘗て聽かぬ聲、唱法だ」といふ感慨を覺えたものゝ身につまされる程
ではありませんでした。本當に驚いたのは「ヴェニ・ヴェン」を一聽に及んだときであります。
甘美と稱される歌聲は世に少なくありませんが、聽き手の神經に纏はり絡みつき捕らへて離さぬ
例は他に無いのではないか……と。舊師塚本邦雄先生は「濃艶凄絶」と評され、作曲者の名前
（ゴメス・マルティネス）から墨西哥（メキシコ）の曲ではないかと推理してをられますが、
『siete CUPLETISTAS DE ARAGON』といふ、アラゴン地方のクープレ（歌謠）を紹介した
CDbookには西班牙のfolklorico（古謠）と記されてゐます。メレが創唱者といふ譯ではなく、
彼女より先にパキータ・エスクリバーノが録音してゐます。贅言は此の邊で切り上げて、メレの
絶唱をお耳に供しませう。

　ヴェニ・ヴェン：VEN Y VEN
https://www.youtube.com/watch?v=fgdX0Dc0s-o

　花賣娘：LA VIOLETERA
https://www.youtube.com/watch?v=q71Q5EMyQzk

　メレは旅藝人夫婦の娘の由、「幌馬車の中で生まれた」などといふ怪しき説まであります。
歌ひ乍ら西班牙各地を經巡るうち人氣を得るに至り、歐州大戦が終結するや巴里に赴き成功を
収め、次の大戰まで巴里を根據地として活躍した模樣であります。其の間（かん）1926年には
ジャック・フェデー監督の『カルメン』のタイトルロールを演じ、32年には自分のヒット曲を
鏤めた『帝國の菫』といふ映畫も撮つてゐますが、此方は現代のmusic videoのやうなものです。
此のフィルムでは「ドニャ・マリキータ」といふ持ち歌も歌はれてゐますが、此の曲は日本では
「ヴェニ・ヴェン」とカップリングで發賣されましたが、戰後の『想い出のラテン･ミュージック
ヒット・アルバム』には未収録、代りにニーニャ･デ・ロスペイネスのフラメンコ版が収められて
ゐたので、上京後に中古レコード店を廻つてＳＰ盤を探し出し、漸く聽くことを得ました。
「ヒターナ・ヒターナ」といふザムブラ(zambra)の傑作も入手、「ヴェニ・ヴェン」よりも寧ろ
此の２曲を愛聽した時期がありました。メレに心醉してゐた若き日の淡谷のり子のカヴァー盤
「ドンニャ・マリキータ」ともどもお聽き下さい。