花王五拾首☆王朝篇  須永朝彦 撰


         
★世の中に絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし   在原業平

★櫻花匂ふともなく春來ればなどか歎きの茂りのみする    伊勢

★うつつには更にも言はじ櫻花夢にも散ると見えば憂からむ  凡河内躬恆

★春霞たなびく山の櫻花見れどもあかぬ君にもあるかな    紀友則

★櫻花散りぬる風の名殘には水なき空に浪ぞ立ちける     紀貫之

★咲けば散る咲かねば戀し山櫻思ひ絶えせぬ花のうへかな   中務

★さだかにも行き過ぎめやは古里の櫻見すてて歸る魂     清原元輔

★おもかげに色のみ殘る櫻花幾世の春を戀ひむとすらむ    平兼盛

★櫻花手毎に折りて歸るをば春のゆくとや人は見るらむ    源登平

★人も見ぬ宿に櫻を植ゑたれば花もてやつす身とぞなりぬる  和泉式部

★花の色にあまぎる霞たちまよひ空さへ匂ふ山櫻かな     藤原長家

★今は咲け深山隱れの遲櫻思ひ忘れて春を過ぐすな      源經信

★山高み岩根の櫻散るときは天の羽衣撫づるとぞ見る     崇徳院

★またや見む交野のみ野の櫻狩り花の雪降る春のあけぼの   藤原俊成

★櫻花待つと惜しむとするほどに思ひもあへず過ぐる春かな  藤原俊成

★寢ぬる夜のほどなき夢と知られぬる春の櫻に殘るともし火  藤原俊成

★花にあかでつひに消えなば山櫻あたりを去らぬ霞とならむ  藤原俊成

★なほ散らじ深山がくれの遲櫻またあくがれむ春の暮方    藤原俊成

★儚さをほかにもいはじ櫻花咲きては散りぬあはれ世の中   藤原實定

★思ひ寢の心やゆきて尋ぬらむ夢にも見つる山櫻かな     藤原清輔

★葛城や高間の櫻咲きにけり立田の奧にかかる白雲      寂蓮法師

★いま櫻咲きぬと見えて薄ぐもり春に霞める世のけしきかな  式子内親王

★八重匂ふ軒端の櫻うつろひぬ風よりさきに訪ふ人もがな   式子内親王

吉野山霞の上にゐる雲や峰の櫻の梢なるらむ        宜秋門院丹後

吉野川淺瀬しらなみ岩越えて音せぬ水は櫻なりけり     鴨長明

★霞立つ峯の櫻の朝ぼらけくれなゐくぐる天の川浪      藤原定家

★散りまがふ木のもとながらまどろめば櫻にむすぶ春の夜の夢 藤原定家

★世のつねの雲とは見えず山櫻けさや昔の夢の俤       藤原定家

★かざし折るみちゆき人の袂まで櫻に匂ふ如月の空      藤原定家

★櫻花咲きにし日より吉野山空もひとつにかをる白雲     藤原定家

★櫻花夢かうつつか白雲のたえてつれなき峯の春風      藤原家隆

★さらにまたなほ面影にさくら花彌生の雲のくれがたの空   藤原家隆

★昔誰れかかる櫻の花を植ゑて吉野を春の山となしけむ    藤原良經

★櫻咲く比良の山風吹くままに花になりゆく志賀の浦浪    藤原良經

★霞むより深山に消ゆる松の雪さくらにうつる春のあけぼの  藤原良經

★世の中よ櫻に咲ける花なくば春といふ頃もさもあらばあれ  藤原良經     

★春はみな同じ櫻となりはてて雲こそなけれみ吉野の山    藤原良經

★色は雲に匂ひは風になりはてておのれともなき山櫻かな   藤原雅經

★古里となりにしかども櫻咲く春や昔の志賀の花園      俊成卿女

★なべて世の花ともいはじ小初瀬の山の櫻のあけぼのの色   俊成卿女

★入日さす峯の櫻や咲きぬらむ松の絶間にたえぬ白雲     建禮門院右京大夫

★櫻咲く山は霞にうづもれてみどりの空に殘る白雲      藤原公經

★今はとて櫻流るる吉野川水の春さへせく方もなし      藤原公經

★みよし野の高嶺の櫻散りにけり嵐も白き春のあけぼの    後鳥羽院

★歸る雁の夜半の涙やおきつらむ櫻つゆけき春のあけぼの   後鳥羽院

吉野山さくらにかかる夕霞花も朧の色はありけり      後鳥羽院

★櫻花霞あまぎる山の端に日もかげろふの夕暮の空      藤原道家

★初瀬女の嶺の櫻の花蘰空さへかけて匂ふ春風        藤原爲家

★梢には花もたまらず庭の面の櫻にうすき有明の影      伏見院

★吹き拂ふ山の嵐ははげしきにおつる櫻はのどけかりけり   永福門院

 ☆私撰詞歌集の中から櫻五拾首を載せてみました。
 ☆春の和歌として〈花〉と詠めば即ち櫻詠となりますが、此の五拾首には採つてをりません。
  〈花〉を用ゐて櫻を詠んだ名歌も少なからずありますので、幾首か擧げておきませう。

★からびとの舟を浮べて遊ぶてふ今日ぞ我が背子花かづらせよ 大伴家持
★花にあかぬ歎はいつもせしかども今日の今宵に似る時はなし 在原業平
★いくとせの春に心をつくし來ぬあはれと思へみよし野の花  藤原俊成
★はかなくて過ぎにしかたを數ふれば花に物思ふ春ぞ經にける 式子内親王
★花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る  式子内親王
★風かよふ寢覺の袖の花の香にかをるまくらの春の夜の夢   俊成卿女
★さそはれぬ人のためとや殘りけむ明日よりさきの花の白雪  藤原良經
★花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟のあと見ゆるまで 宮内卿