だんまりほどき

 12月28日附けの【歳末東京滯在略記】中の国立大劇場「東海道四谷怪談」觀劇記に就いて過分のコメントを寄せて下さつた方があり、滅多にコメントが書き込まれぬものですからありがたく讀みましたが、何分、感冒に罹り意識が朦朧氣味の折に記しましたので、讀み返すと氣にそまぬところ少なからず、改めて爰に些かを補しておきます。
 私が「深川三角屋敷」に拘つたのは、此の場が《だんまりほどき》となつてゐるからです。御存じのやうに〈だんまり〉は數人が暗中手探り(舞踊的動き)で交錯するパントマイムの如きものですが、此の間(かん)必ず登場人物の携帯品が動くのです。「砂村隱坊堀」のだんまりでは直助權兵衞の鰻掻き(ヤスといふ突き漁具)と佐藤與茂七が携帯する密書(鹽冶浪人の囘文状)の持ち手が替ります。これが如何なる展開を見せるのか、次幕すなはち「三角屋敷」で解(ほど)かれねばなりません。密書を失つた與茂七は鰻掻棒に彫られた權兵衞の名を手がかりに直助の住處(すみか)を突き止め、三角屋敷を訪ねる譯ですが、其處には、序幕「浅草田圃の場」で〈夫の與茂七が殺された〉と思ひ込まされてしまつたお袖(與茂七の妻、お岩さまの妹)が、「敵討を手傳ふから」と言葉巧みに口説いて同棲に持ち込んだ直助(お袖に横戀慕、裏田圃で與茂七と着衣を交換した奥田庄三郎を與茂七と疑はずに殺害)と夫婦同然に暮してゐます。詳述は避けますが此の場にて三人をめぐる因果の絲(三角關係と畜生道)が明かされる譯で、「隱坊堀」の場を出すからには何としても「三角屋敷」を上演すべきだと考へる次第であります。
 同樣に「蛇山庵室」を出すからには「夢の場」を省く譯にはゆかぬと考へます。先般上演の「庵室」は、伊右衛門母子講中の人々が圓座して巨きな數珠を繰り廻しつゝ百萬遍念佛を唱へてゐるところへ病み疲れた伊右衛門が「さては夢であつたか」と叫んで轉がり込んで來ましたが、如何にも唐突の觀があります。それは此の大詰の場の始めに設へられてゐる肝心の「夢の場」が省かれてしまつたからです。「夢の場」は元禄頃からさまざまな芝居の中に設けられてゐたやうですが、冒頭に天井から〈心〉の一字を書いた切り出しを吊すなど興趣ある演出が施されてをり、今では舞台に載ることも稀ゆゑ、是非とも殘して貰ひたいと切に思ひます。


☆22時過ぎから雪になりました。積もりさうです。

*日附が17日になつてをりますが、此の記事は18日午前2時頃に打ち込んだものです。

☆明け方、一時止みましたが、またちらほら降り始めました。
 姨捨山を撮らうと外へ出てみたのですが、雪曇りで山容が見えないので、東山を。